山南さん、俺はずっと不思議に思ってたことがある。
どこで俺はものを思ったり考えたりするのかってこと。脳か。心臓か。
もしかして心っていうのは別にあって、体は体で別のことを考えてるんじゃないのか。でなきゃなんで考える前に手が延びたりするんだ。なんで思ってるのと違うことを口が勝手に言うんだ。なんで自分の体が自分の思う通りにならないんだ。心が何を思ってたって体が別のことしてちゃしょうがないじゃねえか。何も言えないし、何もできないんじゃ、何も思ってないのと一緒じゃねえか。なんか、すっげ悔しいな。結局、体がなきゃ何もできないんじゃねえか。
あんたが好きだよ山南さん。あんたがいると嬉しいし、あんたがいると哀しい。
ちゃんと思ってる。
体がどうなってもちゃんと思ってる。
あーあ。
…すっげえ痛ぇ。
21時。
最初の4、5杯では何も起こらない。6杯目でじんわりと熱が胸にくる。7杯目で指にくる。8杯目で頭に。
……来た来た来た来た。
この5杯目と6杯目の間、アルコールが体も心もふわっと軽くしてくれるこの瞬間、この瞬間の快感を味わうために人生がある。呑んでも呑んでも酔えない夜もある。順番を飛び越えて悪酔いする夜もある。今晩はいい。最高だ。昼間は外出して適度に疲れ、メシも適度に食った。まさに1週間に1度あればいい最高の酔い心地だ。
芹沢の携帯が鳴ったのは、まさにこの至福の一瞬だった。
「ざけんじゃねえぞこの野郎!!」
芹沢は普段から気が短いが、今は普段の芹沢ではない。酔う直前の芹沢だ。これからのお楽しみを邪魔されて黙って耐えるような、人として当たり前の常識など持ち合わせていない。
「なんだてめえ!俺は今……あ?なに?土方が何。ケガ?ケガだろ?死んでねえんだろ?ならどーしよーもねえじゃねえか。くだんねえことで電話寄越すな。切るぞ!」
芹沢は本当に電話を切って、椅子に戻ってグラスを一気に空けた。そして上着を掴んで車に乗った。
…あーまずいまずい。変な酔い方した。視界が斜めだ。
酔っているので頭のほうはまったく信用できないが、この際体を信用することにして、芹沢は足に任せてアクセルを踏んだ。
正直、芹沢は土方のことなど心底どうでもよかった。ただでさえ気が合わないのに、この素敵な夜を邪魔してくれたことで更にどうでもよくなった。どうでもよくないのは別のことだ。
いつもと声が違った。
「新見!」
国道から住宅街の路地に折れようとして、芹沢は飛び出してきた新見を危うく轢き殺しそうになった。路肩に寄せる面倒を省略して斜め停車したまま外に出た芹沢の後ろから「どこ停めてやがる!」「後ろ削んぞ!」などと後続の罵声が飛んできた。いつもなら投石して窓割るぐらいはするのだが、今はちょっと忙しいので無視だ。
「こら!俺が呼んだら返事しろ!」
この寒空のわりに軽装の新見は、ヘッドライトに目が眩んだようにぼーっと歩道の真ん中に突っ立っている。
なんだ気味悪ぃな。反応鈍いし。芹沢は悪態つきながら傍に行き、とりあえず新見のほうを引っ張って路肩に寄せた。
「?…なんで先生がここに」
新見の視線は芹沢を通り越して、どこか遠くを見ている。
「てめぇこそなんでここにだ。どこ行く」
「…どこ…て訳じゃありませんが」
ああ〜苛々してきた。
「訳じゃありませんが、何だ。出社の必要ねえんだろ。病院か?え?山南が行ってねえのにおまえが行くのか?おまえがそんなことしていい立場か?」
「…いえ」
「じゃあ何だ!てめぇは俺以外のことでおかしくなるな!」
「…死んだらどうしようかと」
芹沢は思わず眩暈を覚え、電信柱に手をついた。何をとんちんかんなこと言ってやがる。ケガの程度もわからねえのにどうしようもこうしようもあるか。死んだところでどうもするか。よりによって新見が「どうしよう」なんてどうしようもねえセリフを吐くとは思わなかった。
「…先生が」
「あぁ!?」
「…芹沢先生が死んだらどうしようか、と思って」
芹沢は一瞬、新見の気が狂ったのかと思った。何でそこで俺が死ぬ話になる。
目の端で信号が2回目の赤になった頃、ようやくすとんと腑に落ちた。
先生と似てる。だからほっとけない。
…ああ。あーあーあー。はいはい。芹沢はぽんぽん新見の背中を叩いた。そうかそうか。怖かったか。
どうも最近様子がおかしいと思ったら、新見は自分たちのことを土方や山南に重ねていたのだ。自分の夢を子供に託す親みたいに。だからこんなふうにあいつらが終わるかも知れないと聞いてパニくったのだ。うっかり山南にシンクロしたのだ。なんて身勝手で幼稚な。
「あのな。事故ったのは土方で、泣いていいのは山南だ。分かるな。おまえが泣くな」
「…泣いてません」
芹沢は溜息をついて手を延ばした。
頭を撫でた途端、新見はぼろっと涙を零した。芹沢はかなり真剣に保父さんになろうと思っていたぐらいで子供の扱いは慣れている。子供が泣くのを我慢しているか、泣きたいのが自分で分かってない時に、いきなり優しくすると絶対泣く。泣くなと言いながら泣かした手前、思う存分泣かせるしかなくなり、芹沢は新見を抱きしめたまま外灯を避けてずるずると路地裏に寄った。誰も通りかかるなよ、頼むから。
しばらく背中を撫でるうち、新見はようやく声を出した。
「……私は」
うおーよかった。喋った。そろそろ凍え死ぬとこだった。
「…先生に死んで欲しいと思ってた」
うわーまた変なこと言い出した。
「なんか知らんが、もう思うな。どうなるか思い知ったろ」
「…はい」
「よしよし、いい子だ。それじゃ悪いが運転してくれ。俺は酔ったうえに怒鳴って凍えて人慰めるような慣れないことして今にも吐きそうだ」
新見は目をちょっと赤くした以外はいつもと同じ顔で頷くと、今までのことが綺麗さっぱりなかったように運転席に回った。
「先生」
「これ以上ごちゃごちゃぬかしたら首締めるぞ」
エンジンが回り出したのと同時に、新見は今まででもっとも間抜けな発言をした。
「好きです」
「知ってるから早く出せ!」
あ。来た。今頃6杯目の熱が。
胸に。
22時15分。
「お茶どうぞ」
井上から差し出された紙コップを震えそうな両手でなんとか受け取って、近藤は少し笑った。
「…源さんて、どこに居てもこれやってますね」
「お茶は鎮静効果があります。とにかくお茶です、お茶。ほら、総司も」
緑色がかった病院の廊下は静まりかえっていて、今、扉の向こうで3人にとって大事な大事な人が生きるか死ぬかの戦闘中だなんて嘘のようだ。
「初めて、歳を手伝えない」
黙りこくった沖田と井上の間で、近藤は手の中でゆっくり紙コップを回した。
「どんな喧嘩もふたりでやってきたのに。手伝えない」
「…近藤さんがここにいれば手伝えてるよ。絶対」
沖田はさっきまで動転して泣いたり喚いたりしていたのだが、今は騒ぎ疲れて放心状態だ。大人しいからこのほうがいい、と井上は密かに思った。
「…ねえ近藤さん。土方さん酔ってたの?」
「いいや。呑ませてない」
「ていうか何でそもそも不動前で事故るの?近藤さんとこから土方さんちでしょ。正反対じゃん」
「…さあな。どこかに寄るつもりだったんだろうな」
近藤は熱い玄米茶を啜った。喉が灼けていく。ほんの数時間前に吐いたセリフを誰かに責められるように。
土方は山南の家に行こうとしていたのだ。赤信号を無理矢理突っ切るほど急いで。
それが返事か、歳。
なら、それなら、自分の口で言え。
俺の前で俺に言え。
こんなのは卑怯だ。
「副長が死んだら一番おいしいの山南さんじゃん」
山南がいたエレベーターフロアまで、それははっきり聞こえた。
「まあそうだろうねえ。土方さんがいなきゃ編集局仕切れるの山南さんしかいないしねぇ」
「うるせえのがいなくなったうえに部署ふたつ手に入って大出世だよ。おまけに坂本さんとツーカーじゃ」
「死ねばいいぐらい思ってんじゃないの」
…ああ。やっぱりそう思われたか。
山南はゆっくりと前のめりになって額をゴンと壁にぶつけた。
2階から4階ぐらい階段で上がればよかったのだ。エレベーター待ちなんかしてたから、聞かなくていいことを聞いてしまった。
上司の危機で動揺しているところへライバル部長が出ていって責了印を押せば、これくらい言われても当然だ。
責了印を押すということは、その部署の入稿物に対して全責任を負うということだ。最初、山南は副編の武田に任せようと思っていたのだが、近藤が「武田くんでは心許ないから山南さんにお願いしてください」と井上経由で伝えてきたのだ。武田は優秀な編集者でプライドも高い。何だか言い訳じみていて「社長命令ですから」とは言わなかったのが、かえって反感を煽ったかもしれない。
山南はのろのろとエレベーターに乗り込み、4のボタンを押した。つもりが指に力が入らず、押し損ねたまま扉が閉まった。
…密室だ。誰も見てない。
思った途端気がぬけて、山南はずるずると壁に持たれて20センチほどずり下がった。
「あー……腹立ってきた…」
自分の仕事だって充分大変なのに、何の因果で人の島なんか仕切らなきゃならないんだ。こんな面倒なこと好きでやってるとでも思うのか。トップがいないぐらいでパニックで総崩れになる部署なんか知ったことか。下を育ててこなかった土方が悪い。いっそ全部放り出してしまおうか。
「……できないこと言っててもしょうがないですしね」
土方が戻ってくるまで、何とか持ちこたえるしかない。今、自分が土方にできることはそれしかない。
営業部に行って藤堂たちを労おうと思っていたのだが、今すぐふたりの前で平気な顔ができそうになかった。何だか、何か、崩れそうだ。考えまいとしてることを考えてしまいそうだ。少し頭を冷やしたほうがいい。山南は少し迷って、屋上へのボタンを押した。いや押そうとした。
扉が開いた。
「……何してんだおまえ」
「……貴方こそ」
ふたりぶんの体重を受けたエレベーターが微かに揺れた。
23時30分。
営業部では藤堂と斉藤が将棋をさしていた。
井上からは先刻また1本電話が入ったが、何せ本人は手術室に缶詰でいつ出てくるんだか分からないし、医者からは「今のところは何とも言えないが全力を尽くす」としか言われない。こっちが知りたいのは「土方は生きて出てくるのか死体で出てくるのか」なんだが、流石にそうはっきりは聞けないので「分かりました」と答えて、藤堂は電話を切った。
「…さっっぱり分かりませんっ」
斉藤は駒を手の中で鳴らしながら、ケガにも病気にも縁の無さそうな藤堂をちらりと見た。
「全力を尽くすって何ですか。手を抜きますって言うわけないじゃないですか。何とも言えないったって何とか言えるでしょう」
「…中がどうなってるか、切って開けてみないと医者にも分からない」
「どういう意味ですか?」
「車だと、どこを折ってどこを打つか大体決まってる。バイク事故は難しい。俺の中学の時のツレはバイクで転んだが無傷で、家に帰って、寝て、翌朝何故か死んでた」
「嫌な話しないでくださいよ!!」
斉藤は軽く肩を竦めた。
「王手」
「え。嘘。あれ?…斉藤さんはお金賭けてない勝負事には弱いって芹沢さんに聞いたのに」
「運だ。なんでも。あの人の運に賭けろ」
藤堂は最初は正社員ではなく、土方の部署で葉書整理のアルバイトをしていた。あの時の土方は優しかった。絶対に残業はさせないし、失敗しても声も荒げないし、質問すると根気よく教えてくれ、プライベートな相談(主に恋愛関係)にものってくれ、何度も食事をご馳走してくれた。何故こんなに優しい人が鬼呼ばわりされるんだろうと不思議に思った藤堂は、社長のくせにそのへんをうろうろしていた近藤を捕まえて聞いてみた。すると近藤はにこにこしながら「藤堂くんはお客様だからですよ」と答えた。「今はバイトをしてるけど、本を買ってくれるお客様には違いない。もし貴方が歳に嫌な思いさせられたら、こんな会社の出してる本誰が買うかって思うし、そう友達に話すかもしれない。そうしたら顧客が減る。だから優しくしてるんです。もし貴方が正社員になったら俺のものと認識して無茶苦茶言い始めますよ。そういう奴なんです」
なるほど!と当時大学院生だった藤堂は思った。と同時に、もう2年も同じ職場で仕事してるのに自分は「お客さん」だったのかと哀しくもなった。罵声を浴びてもいいから仲間にして欲しい。そこで採用試験を受け直して社員になったのだが、その途端土方は掌返したように冷たくなった。数字を落とすと「使えねえ」を最後に1ヶ月丸ごと口きいてもらえない。上げたところで山南の部署に負けていると機嫌が悪い。しかしそのぶん、跳ね上がった数字を持って土方のところへ行く時は至福だ。土方は数字を確認し、計算機を叩き、目から離したり近づけたりし、間違いないとなると飛び上がって藤堂をぎゅうっと抱きしめた。
「偉い!よくやった!愛してる!」
あの子供のような笑顔を見ると、さっきまで大嫌いだったのに急にめろっと大好きになってしまうのだ。次の日からまた大嫌いになったりするのだが、でも、こんなに仕事にやり甲斐をくれたのは土方だ。いないと困る。
「…土方さん、運がいいといいな」
「悪い」
斉藤はあっさり言い放ち、今度はドミノをするべく駒を机に並べだした。
「新年会のビンゴで何も当たらなかったのは土方さんだけ。精算費の抜き打ち監査に引っかかったのも土方さんだけ。花見の時にフグに当たったのも土方さんだけ。今年に入って携帯2度もトイレに落とした。夏頃空き巣に入られた。来月には4誌も廃刊の危機。山南さんにさくっと売り上げ抜かれる。雨も降ってないのに事故る。不運の吹きだまりだ」
「…斉藤さーん…」
「これだけ続けば、あとは上がるだ、け」
斉藤の指に弾かれてコトコト倒れた最後の駒が、電話機に当たって止まった。
それを合図にベルが鳴り出した。
土曜の夜。まだ宵の口。それでも新宿の灯りだけがやけに粘っこく、煌々と明るい。
芹沢が差し出したボックスから、山南は遠慮なく1本引き抜いた。滅多に煙草は吸わないが、今は必要だ。
「またどうして芹沢さんがここに。新見さんから連絡いきませんでしたか?」
「きた」
「なら何…」
芹沢の顔が急に近づいてきたので、山南は煙草を銜えて息を吸った。煙草の先が山南のそれに触れ、小さな音を立てて火を移した。
「…こういうの、ひさしぶりにしました。昔はよく」
「俺は新見としょっちゅうやるけどな」
「へぇ。…仲いいんですね。羨ましい」
山南が夜空に煙を細く吐き出すのを、芹沢は柵に凭れてじっと眺めている。
…何なんだいったい。普段でもろくに出社しない芹沢が、仲がいいでもない土方を心配して出て来るとは思えない。
山南は灰をコンクリートに落とし、靴の先で散らした。
「さっき一部の連中2,3人殴ってきた」
芹沢は唐突に言った。
「ちょっと!やめてくださいよ貴方の部下じゃないんですから。これ以上患者出してどうするんです」
「俺ぁ陰口が嫌ぇなんだよ。泣きでもすりゃあカワイイのによ〜…って言われてたぜ、おまえさん」
「…しょうがないですよ。あの人達が一番大変なんです。誰かにあたってないとやってられないんでしょ」
「ご立派だな。陰口より嘘つきの方がタチ悪い」
「……」
「泣かない奴が悲しんでない訳でもねえよなぁ、山南さん」
「…はあ。まあ」
「泣かない奴が強い訳でもねえしな」
「何が言いたいんです」
「一生我慢し続けるほど腹も据わってねえガキのくせにいい大人ぶるなってんだよ。おまえ見てると誰かみてえで苛つくんだよ。怒りたきゃ怒れよ。泣きたきゃ泣けよ。行きたきゃ行けよ。そんな当たり前のこともできねえのか。それとも何がしたいのかも分かんねえのか」
山南は無意識にフィルターを噛みしめ、噛み千切る寸前で唇から引き抜いて捨てた。
「私を怒らせたいんですか?」
「あーそうだな。そうかもな。おまえみてえな野郎はご立派な知性が邪魔して怒らすか泣かすかしねえと思ってることも言わねえからな」
芹沢はパンとコートの裾を叩いた。
「来い。下に車待たせてる。今の時間、裏道とばしゃ20分だ」
来い?
なんで芹沢が。なんでわざわざ揺さぶりにくる。なんでほっといてくれない。せっかく。
…せっかく我慢しているところへ。
「…嫌です」
「ぶん殴られる前に素直になったほうが身のためだぞ。このままあの間抜けがくたばったらどうすんだ。次に会うときゃ棺桶の中だぞ。いくら惚れあってたって死人に口なしだぞ。ふたりきりにもなれねえぞ。今行って泣き喚きゃ近藤だって流石に同情する」
惚れあう?誰と誰が?あの人は私の知らないところでいったい誰に何を喋ったんだ?
「私が行ったってどうにもならない。…そんなことあの人は望んでない」
「おまえのことだ!」
芹沢はいきなり山南の胸ぐらをひっ掴み、両手でパンと頬を叩いた。ぎりぎり痛くない程度に。
「どうにかならねぇとしちゃいけねえのか!?誰が望もうが望まなかろうが関係あるか!おまえが望めば充分だろうが!!」
泣いて。…泣いてしまう。
あの人がいなくなったらどうしよう。
そんなどうしようもないことを考えてる場合じゃない。そんな考えても無駄なことで乱れてる場合じゃない。そんなのは私らしくない。泣くのは今じゃない。あの人がいなくなった時だ。今じゃない。
バン!
屋上の扉がもの凄い勢いで蹴破られた。
「山南さん、ここにいたのか!今、電話…」
斉藤は芹沢に気付くとその場で飛び上がり、昔のくせで「気をつけ」の態勢をとり頭を45度下げた。
「お疲れさまです芹沢さ」
「ちゃっちゃと用件を言え!たてこんでんだこっちは!」
「死なないそうだ」
芹沢は山南からぱたんと手を離した。
「肋骨を変に折って内臓掠めたり外に突き出したりの大騒ぎだったが、とりあえず死にはしないそうだ。他に足だの腕だの折ったり切ったりしてるが、それはまあ、些細なことだと思う」
「……ああ。そうか。なんだ。よかったな」
芹沢の呆けた返事を聞くと斉藤はまた一礼し、来た時と同じ勢いで連絡網をまわしに駆け下りて行った。
重い音を立てて扉が閉まり、一気に静寂と暗闇が来た。
死なないそうだ。
「…おい山南。聞いたか。死なないんだとよ。せっかく盛り上がってたのに興冷めたぁこの事だぜ」
「……」
「何だか馬鹿みたいな気になってきた。顔見に行くなら新見に送らせるがどうする。もういいか。死なないし」
「……」
「どうすんだよ」
「………よかっ……」
芹沢はぎょっとしてポケットに突っ込んでいた両手を引き抜いた。不意打ちだ。今か。今泣くか。
他にどうすればいいのか分からなかったので、とりあえず泣き顔が見えないよう山南の肩をきつく抱いた。俯いた山南の足下にぽたぽた大粒の染みができていく。
「……誰にも」
「言わねえよ。思う存分絞り出しとけ」
こんな時までプライドの高い山南に呆れるを通り越して感心しつつ、芹沢は片手で懐を探って煙草に火を点けた。
でも新見には教えてやろう。
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