ACT.8





 16時。
 会社からわざわざ一駅ぶん離れたドトールで、斉藤は藤堂と向かいあっていた。
 このふたりは同じ部署で年も近い。本来ならば普段からもっと会話があってもよいはずだ。だが斉藤はそもそもが無口で人のいないところいないところを見つけて潜り込むし、藤堂は飛び込み営業に駆け回る仕事熱心なことでは指折りの社員だったので、ろくに顔をあわせる機会がないのだ。唯一ふたりの橋渡しをしていた沖田は、今、ちょっと、いない。
 藤堂はストローを手の中で弄いながら、ふうと溜息をついた。
「…沖田さん、大丈夫でしょうか」
「俺は沖田じゃないから知らん」
「…ええ、斉藤さんが沖田さんじゃない事はそこの店員さんでも分かります。予測というか見通しというか、そういうものをお聞きしたいんです。斉藤さんは人のことをよく見てると思うから」
 藤堂はいつも、順序立てて最後まできちんと話す。
 斉藤はいつも喋ってる途中で飽きてしまうので、藤堂のそんなところを尊敬している。
「…沖田くんは根に持つような子じゃないから大丈夫ですよ」
「…はい?」
「と、山南さんが言ってた」
 カサ。
 斉藤の足下に置かれた社名の入った紙袋の中で、綺麗な紅葉が音を立てた。

 先刻、沖田は渋る新見からカウンターキーの在処を聞き出し、藤堂と斉藤を付き合わせて会社に行った。休日に編集以外の部署に人がいることはまずないので、沖田はまったく警戒せず(いたとしても警戒しなかったが)プレス機を作動させた。ところが何をどうしたのかいるはずのない近藤が現れて、もの凄い剣幕で沖田を叱りつけた。ふたりは勿論庇おうと思ったのだが「近藤が沖田を怒鳴りつける」ところなど未だかつて見たことがなかったので仰天してしまい、結果的に、ただ、立っていた。
「近藤さん、今までそんなことで怒ったことなかったじゃない!」
「ああ、多少のことはおまえであれ誰であれ大目に見てきた!だからっていつまでも調子にのっていいことにはならん!おまえは部下の見本にならなきゃならん立場だろう、いい加減自覚しろ!」
 近藤はキーをひったくり、その場で芹沢に電話して文句を言い(キーを貸したのは新見だが貸すよう言ったのは芹沢だ)沖田も驚いたのと怒ったのと哀しいのとでフロアを飛び出してしまい、残ったふたりは沖田が放り出した紅葉を丁寧に拾って会社を出てきた。そして、こうして向かい合っている。
「…斉藤さん。私は自分が嫌になりました」
 返事がないのに慣れた藤堂は、俯いたまま話を続けた。
「近藤さんが沖田さんを叱った時、本当は、ちょっと、小気味がよかったんです。近藤さんは、昔馴染みの沖田さんには甘いから、私はいつも理不尽に思ってました。沖田さんが普通にしていても人に好かれたり可愛がられたりするのが羨ましくて、妬ましくて、それで、少し…ざまあみろと思ったんです。友達なのに。…私は最低です」
「乾燥させたらいいんじゃないか」
「……何を」
「この葉っぱ」
 斉藤は目の前でくるくる紅葉を回している。
「…斉藤さん。たまにでいいから人の話を聞きましょうよ」
「悪いが俺は昨日から人のことに一切関心をもたないようにしている」
「……何故よりによって昨日から…」
「関心はないがおまえが最低じゃないことぐらい誰でも知ってる。出よう。押し花作るんだろ」
 斉藤は冷めたコーヒーを一気のみして立ち上がった。
「…一番綺麗なの、沖田さんにあげていいですか」
「最低な奴の言葉じゃないな」
 藤堂がようやく少し笑ったので、斉藤は誰もいなければ崩れ落ちたいほどに安堵した。慰めるのが、慰められるのの次に苦手なのだ。こいつはいいとして、沖田も大丈夫として、近藤はいったいどうしたんだろう。いつもの近藤らしくなかった。
 …ところでどうやったら誰にも関心がもてないようになれるんだろう。

 18時。

 近藤さんときちんと付き合ったらどうです。

「おまえ、もの凄く機嫌悪いだろう」
 玄関で顔を付き合わせた途端、近藤はいきなりこう言った。
「…そんなことはないさ」
「何がないさだ。バイクで来ただろ」
 土方は一度電車で家に帰って、着替えて、特に何も考えずにここまでバイクを飛ばしてきたのだが、そういえば近藤と土方の家は自転車でも10分だ。いつもなら自転車を漕いでくる。るんるんと。
「…あ?…そういや何でだ?俺は機嫌が悪いのか?」
「…入れ。海鮮チゲだ。好きだろ」
 土方が出向くたび、近藤は手料理で歓待して世話をやいてくれる。気がついたら小皿に鍋の中身が足されているというような、実にさり気ない世話のやき方で。
「歳、体は大丈夫なのか?昨日も呑んだろ。しかもかなり。もう若くないんだから程々にしろ」
「…言うほどじゃねえよ」
「声聞けば酒量ぐらい分かる。その怪我チンピラに喧嘩売ったか女に無理強いして噛まれたかどっちかだ。どっちにしろ呑みすぎだ。新宿もよせ。夜が長すぎる」
 土方はこたつに(いくらなんでも出すのがちょっと早い)足を突っ込んでのろのろと箸を動かしながら、アクを掬う近藤をちらりと見た。言ってる内容はともかくとして、声音がいつもより随分と柔らかい。
 2日酔いを気遣ってだ。この献立も。近藤はいつも土方のペースに合わせる。何から何まで誰かさんとは大違いだ。
 テレビからは騒々しい土曜の夜のバラエティ。こたつの上には鍋の湯気。
「…かっちゃん。話ってなんだ」
 近藤があまりにも普段どおりなので、ついに土方は自分からふった。いつ山南のことを持ち出されるかとビクビクしながらじゃ、せっかくの鍋の味もよく分からない。もう腹は括ってる。さり気なく吐いてしまおう。実は山南さんとは昔ちょっとした事で知り合ってちょっと仲良くしてたんだがちょっと仲悪くなってな。…すげえ。ばっちりだ。
「ああ。まあ、たいしたことじゃないんだ」
「…何だよ」
「好きだ」
「ぶっ!!」
 近藤は淡々と布巾で辺りを拭った。
「驚くようなことを言ったか?」
「…や。そうか。うん。おう。俺も好きだ。きゅ、急に当たり前のことを言うから驚いた」
「俺は驚くようなことを言ったんだ、歳」

 近藤さんはもうすぐ君に告白してくると思う。

「歳。俺はな、ずっとおまえのしたことを考えてた」
 近藤は至って冷静だ。冷静に白菜を鍋に散らしている。
「…したこと」
「しただろ。キス。あれは何だったのかと随分長いこと考えてた。…もう忘れたか?」
「…いや」
 なんだなんだ何を言い出すんだ何を。おまえこそもう忘れたみたいにしてたくせに。
「あれはリセットってことだったんだな」

 近藤さんがもし私が思うような人だったら、私のことを言い訳に使ったりしない。

「正直恨んだよ歳。俺もあの時はおまえに夢中で訳わかんなくなってたしな。まあ中坊の頃ってのはみんなおかしいけどな、やたら感受性豊かでテンション上がったり下がったりして。俺のもアイドルにのめり込むのと変わらなかった。麻疹みたいなもんだな。おまえは俺より随分と大人だったよ。何でおまえが相談もなしに離れるのか分からなかった。高校入った途端ぱったり音沙汰ないしな。あんまり酷いと思ったよ。泣いたな随分。まあ、今から思うとそれがよかった。おまえがいないせいでやっと落ち着いて、人並みに地に足つけて受験のことやら将来のことやら考えられるようになった。普通に友達作ったり女の子追っかけたりできるようになった。おまえとあのままいたらどうなってたか分からない。おまえも俺といてこれはヤバいなと思ったんだろ。だから俺のために離れてくれた。納得するまで随分かかったけど、結局ほとぼりが冷めた頃にきちんと親友として俺に会いにきてくれた。嫌われたんじゃなかったって分かってほっとした。今はおまえと一緒に仕事ができて毎日楽しいよ。今も、あの頃のことにも、本当に感謝してる」
「……」
「問題は、ほとぼりが冷めて、思春期が終わって、落ち着いて、大人になって、おまえに会って」
 近藤はそこで息をついだ。
「また好きになっちゃったってことだな」
 煮立った鍋がグツグツ言いだし、近藤は動かない土方のかわりに手を延ばして火を止めた。
「あの時のおまえは俺の憧れだった。大人だったし落ち着いてた。今もそりゃ頭はきれるし仕事のできるいい男だとは思うが、どっちかというと無鉄砲で嵐みたいだ。あの時とは俺もおまえも違う。今の俺の好きはあの時の好きとは違う。俺はな歳、初恋を引きずってる訳じゃないんだ」

 君と私みたいに、昔の気持ちをそのまま使ったりしない。

「…おい。大丈夫か。鍋、辛かったか?」
「…いや」
「別に今すぐどうこうしてくれって訳じゃないから真面目に考えてくれ。話はそれだけ」

 近藤さんはこの世の誰よりも君が好きで、大事に大切に思ってる。

 そんなことは知ってる。おまえに言われなくても知ってる。
「…俺はかっ……近藤さんの部下だよな」
「ああ、うん。それはそうだ。俺も仕事と個人への思い入れはきちんと分けなきゃいけないと思う。おまえにたいしてプライベートでも曖昧なところがあるから迷うんだ。親友といえば親友だが、それじゃ不満といえば不満。はっきりさせたほうが切り替えられる。…仕事にしても人間付き合いにしても対象物とのスタンスが曖昧な時にだけ人は迷うんですよ」
「……」
「と、山南さんが言ってた」
「…や」
 土方は思わず唸りそうになった衝動を収めるために皿の中身を胃に流し込んだ。チゲの辛さが胃に張り付いてかっと熱くなる。
 山南はこうやって少しずつ少しずつ、人を「押す」んだ。山南如きの言ったとおりに動くんじゃねえよ近藤さん。あんたの格が下がる。
「…あいつはあんたの心配なんかしてないぞ」
「ああ、山南さんは俺の心配なんかしてない。会社の心配をしてるだけだ。大人なんだ」
「どこがっ」
 何でみんなあいつに騙される。そんな大層な奴じゃない。
「あんた山南に突かれて焦ってるだけだ」
「そんなことはない」
「あるんだよ!」
 近藤は土方をじっと見た。
「…おまえは、山南さんと入社前に面識が…違うな、もっと…因縁みたいなものがあったんだろ」
 近藤の声音は穏やかで柔らかい。人を安心させる。囲炉裏端で昔話でもするように。
 そしてそれは本当に昔話だ。
 土方は一瞬迷ったが、頷いた。…因縁。そうだ、そのとおりだ、まさにそれだ。
「おまえと山南さんの話は聞きたい。いつかな。今は俺とおまえの話が先だ。でないと俺はまた迷う」

 近藤さん、俺は大人じゃない。
 あの時逃げたのは俺のほうがヤバかったからだ。本気になりそうで怖かったからだ。
 俺だって初恋はあんただった。
 山南にさえ会わなければ、そのまま、あんたが好きなままだった。
 今でも好きだ。大好きだ。好きなのはあんただ。あいつじゃない。
 毎朝毎晩殺したいほど考えてるあいつじゃない。2日酔いしてる奴にフライドチキン買ってくるようなあいつじゃない。

 だから、殴りたいのも抱き潰したいのもあんたじゃない。

 20時。
「…低温でさっとアイロンをかけて、こう。お菓子についてる乾燥剤なんかを取っておくとね、色が綺麗にでるんです」
「へえ〜!凄い、山南さん何でも知ってるんですねえ」
「小学校で習いません?」
「習いませんよ。習ってたらここに来てませんよ」
 不思議な夜だな。
 山南は大好物の和菓子を手土産にやってきた斉藤と藤堂に押し花の作り方を教えながら、ふと時計を見た。
「あ、校了してたんですよね山南さん。もし仕事がたてこんでるなら私たちそろそろ」
「いいですよ、月曜にあげれば。ちょうど寂しかったんです。来てくれて嬉しい」
「え〜?私たちでよかったんですか〜?」
 冗談ととった藤堂はアイロン片手にコロコロと笑い、斉藤はちらりと目を上げたが黙々と暖まった葉っぱを「故事諺辞典」に挟み続けた。ふたりが山南を選んだ理由は「巧い作り方を知ってそう」「家に重い本がありそう」「沖田と仲がいい」だ。斉藤にはもうひとつ理由があったが、とにかくふたりを迎えた山南は快く協力してくれ、ついでに沖田に電話して様子見までしてくれた(まったく大丈夫だった)。50枚近くの紅葉を挟み終わったところで、3人は日本茶を啜りつつ栗羊羹を摘んだ。
「それにしても、よくうちが分かりましたね。このあたり営業の管轄でしたっけ」
「新見さんに聞いちゃいました〜!」
「……なんで新見さんが知ってるんだ」
「あの人、全社員のを抑えてるらしいですよ。凄いですよね」
「凄いっていうか怖いですよ」
 ここに来てから一言も喋らず羊羹を突き回していた斉藤は、藤堂が手洗いに立った隙に初めて顔を上げた。
「…山南さん。あんたに聞きたいことがある」
「だと思いました。何なりと」
「…どうしたら他人に関心を持たずに済む」
 山南は何度か瞬きした。
「…ああ。確かに斉藤くんは様々な人のことを気にかける。優しい人は何かと気苦労が多いものです」
「……」
 どうして山南さんは、どう反応したらいいか分からないようなことばかり言うんだ。
「辛いですか」
「…辛いというか…俺はいたって平穏なのに何故か心配事が絶えない…」
「何にも関心がない人なんかいないと思いますよ。自分自身に関心がありすぎて他人にまでまわらないとか、趣味に夢中になって他への興味が消し飛ぶとか、色々です。きっと何に関心を向けるかの違いでしょう。私には、他の人にまで関心をまわす余裕がないんです。それだけ」
「あんたの関心は仕事か?」
 山南は微笑んだが、黙って茶を啜った。
「…すると俺はどうしたらいいんだ?趣味でも作ればいいのか?」
「誰かひとりだけを特別に想うとかね」
「……誰かひとり」
「他のことなんか全部どうでもよくなりますよ」
 それは。
 そっちのほうが辛くないか。
「…山南さん、あんた顔色がよくない」
 言った端からさっそく人の心配をしはじめた斉藤に山南が返事する前に、トイレの戸がバンと開いた。
「携帯!携帯鳴ってませんか?私の!?」
「…大丈夫平助、私のです。ちゃんと手を洗って」
「もう、みんな同じ着メロだからややこしいんですよ」
 全社員携帯の着メロはこれにしろ!社則で取り決める!などと酔っぱらった近藤が通達したのは今年の新年会で、もう年も暮れようというのに皆律儀に某大河ドラマのメインテーマに設定したままだ。斉藤は携帯を持っていないので関係ないが。
 山南は携帯片手にベランダへの戸を開けた。
「どうしました源さん」
『なんだかよく分からないんですが、病院まで、いや、いいのかな、うん、とりあえず役員には連絡をと』
「…落ち着いて。何かトラブルですか?」
 井上の声は上擦っていて酷く聞き取りにくい。
『私の名前が井上でしょう、だから、い、ですから、私の所に最初に連絡がきまして、あ、の人がいたらその人が一番なんですが』
 何のこっちゃ。
『土方さんが、事故に、バイクで走ってるときに…いや止まってたかもしれないが、先ほど救急車で病院に』
「…そうですか」
 何をしてるんだあの人は。
「生きてるんですね」
『え?はい。多分。土方さんの携帯のメモリを見て病院の方が連絡を、ええ、一番が井上なので』
「分かりました。病院の場所を。源さんはそちらへ向かってください。あとは誰に連絡をいれれば?」
 山南は部屋に戻ってメモとペンを引き寄せた。
 淡々とした口調につられてようやく落ち着いてきた井上は、やっとスムーズに喋りだした。
『実家と近藤さんと総司には先ほど入れました。ですからあとの役員は芹沢さんと新見さん…あと斉藤くんか』
「分かりました。情報が錯綜しては混乱します。今ここに営業部がふたりいますので社で待機させます。状況が分かり次第連絡はそちらに入れてください」
 山南の目配せで、ふたりは事情が分からないまま身支度を始めている。
「私は社に編集部の人間を集めて進行の調整をします。会社のほうは任せてもらって何の心配もないからと近藤さんに伝えてください」
 山南は電話を切ると、これ以上できないほど簡潔に事情を説明した。
「平助、新見さんに連絡を。新見さんから芹沢さんに伝えてもらって。今のところ宣伝広告の出社の必要はないが全員連絡がとれる場所にいることと、こっちからかけるまで勝手に病院に電話しないこと」
「あの、命に関わるようなことは」
「早くしなさい」
 藤堂は真っ青になったが、それでもこくこく頷き携帯に飛びついた。
 …寒いから、痛いんじゃないかな。
 斉藤はぼんやりと窓の外を見た。寒い時に怪我をすると、痛いんじゃないか。
 昔、斉藤はかなりのやんちゃで、学校にも行かず組の傘下のチンピラの真似事ばかりしていた。怪我は絶えず、何度も死にかけた。結局その縁で知り合った芹沢に引き抜かれてここにいるのだが、今も寒い夜には古傷が疼く。寒いと痛みも寂しさも倍になる。俺は知ってる。
 土方が大変だという事と、山南の異様に冷静な態度が噛み合わず、何だか現実感がない。
「…あんたも行ったほうがいいんじゃないのか?」
「向こうには近藤さんがいます。3人いれば充分だ」
「でももし」
 ガン!
 一瞬おいて、山南は突然もの凄い勢いで食卓を殴った。
 壁が震えるような轟音に、半泣きだった藤堂ともう一押しで泣くところだった斉藤の涙が止まった。
「泣けば助かるなら私だっていくらでも泣く。早く支度しなさい」

 3人で地下鉄に乗った。
 人もまばらな車内には、目にも鮮やかな車内吊り。
「…やるなあ、土方さん」
 いつか山南が呟いたことを、藤堂がそのまま繰り返した。
「…そうですね」
 山南は、会社の最寄り駅に電車が止まるまで上を見上げていた。
 これは意地だ。
 土方がくれた、自分への意地だ。充分だ。

 まるで。
 何かの旗のような。
 
 

 
 



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