ACT.7
11時。
「ああ分かりました。今日は出てこなくていいと伝えてください。ていうか永久に出てこなくていい」
土方は同じ布団の中で通話中らしい、山南の声で目を覚ました。音量が普通だ。
こいつは横でまだ人が寝ているから声を潜めようとか、そういう気遣いはないのか。
「君が謝ることじゃありませんよ。君には関係ない。とにかく彼が起きたら出社の必要はないとそれだけ。どうせアルコール漬けの頭じゃそれぐらいしか入らないでしょう。もう少し入りそうなら辞表の書き方マニュアルの場所でも教えてあげてください。総務部の棚です」
物騒な会話の後、山南はさっさと通話を打ちきった。
「土方くん。君のところ人手は足りてますか」
…朝一番に聞くセリフがこれか。一応元彼と同衾してるんだが。
そもそも普通は起きてるかどうかを確かめてから話しかけないか。
「起きてるのは分かってます」
そうかい。
「足りた試しがねえ…」
「それは都合がよかった。そっちで原田くんを引き取ってください。もういらない」
「あ?」
山南はさっさとベッドを抜け出すと、猛スピードで身支度を始めた。
「出かけます」
「…何だ?会社?俺も」
「君は働き過ぎだ。アルコールが抜けるまで大人しく寝てなさい」
「起こした張本人が何を言いやがっ」
喚いた途端、脳天に落雷のような激痛がきた。
「いっ……つ!」
「…どいつもこいつも」
山南は土方の前以外では絶対にしない舌打ちをした。
「酔っぱらってれば何でもかんでも許されると思ったら大間違いだ!」
山南の一喝がまたもやガンと2日酔いの頭をぶん殴り、思わず布団の上に倒れ伏した土方が顔を上げた時には、家主の姿はもう影も形もなかった。
…そんな。
そりゃ質の悪い酔い方して明け方押し掛けて手当までさせてパジャマまで借りてお布団まで借りたうえここはヤっとくだろてなノリで穴まで借りようとしちゃった俺が申し訳なかったよ調子にのってごめんなさい。だがしかし起きた途端いきなり「編集一部部長」の扱いか。その切り替えの速さは何なんだ。あいつにはその場の流れとか空気とか情緒とか色気とかないのか。ただの一度も思った通りに動きやがらねえ。
土方はなんとかベッドを降りるというより滑り落ち、床にペタンと座ってがしがし髪を掻き回した。改めて見渡すと、また何という生活感のない部屋だ。必要最低限の家具以外、余計な物が何もない。昔はもっと散らかってた気がするんだが。俺が散らかしてたのか。
「…えーと…」
えーとじゃねえ、原田が何だって?
土方はようやく、先刻山南が何やら怒っていたことを思い出した。山南は滅多に怒らない。怒りすぎると返って静まりかえる。ああも分かりやすく怒るということは怒ってはいるがそこまでは怒ってないということだ。ややこしいが、そういうややこしい奴なのだ。土方は酔いで濁った頭を無理矢理回転させた。原田は確か昨日仕事が遅れて…坂本と揉めてて…で…会って…呑んで…ああ、それで今日の仕事が間に合わないのか。電話の相手は、さては永倉。次から次へとご愁傷様だ。
「…やばい」
原田の深酒が自分のせいだとは言わないが、少々手伝ったことには変わりはない。喧嘩に加勢してもらった借りもある。このまま知らんぷりでは後味が悪い。変なところで生真面目な土方は慌てて借りたパジャマを脱ぎ、これ以上余計な怒りを買わないよう丁重に畳んだ。そこではたと気付いた。
「鍵!」
山南、あいつ、鍵、置いていかなかった。
生真面目な土方には鍵を開けたまま人の家を留守にするような真似はできない。山南だってそんなことは重々承知のはずだ。
…ああそう。そうですか。
土方は脱いだパジャマをまた着た。それからゆうべ放り出した鞄の元へ這っていって、携帯を引っ張り出した。こんな時ばかり使って申し訳ない。近藤さん。
12時。
…いや、いつものことですから。
近藤はすぐさま、出社してきた山南を捕まえて社長室に呼んだ。色々勘ぐってしまった手前、山南とふたりで話すのは気が重かったが、土方の頼みとあらば仕方ない。
「近藤さんが休日出勤とは珍しいですね」
「…泊まってたんです」
「ああ道理で」
山南は自分の頭をトンと突いてみせた。近藤は慌てて寝癖を掌で撫でて直した。
さっきまで近藤が寝ていたソファーに腰を掛けた山南は、よく晴れた土曜日にふさわしい微笑を浮かべている。要するにいつもの山南だ。近藤は少々拍子抜けした。別段怒ってるようには見えないが。
「原田くんが、なんだか、やらかしたみたいですね」
「早耳ですね。永倉くんですか?」
「いえ。歳」
「ああ」
山南はこめかみを軽く揉んだ。歳。ね。
「原田くんを放出したいというのは本当ですか?まさか本気では」
「冗談は苦手です」
「…はい」
山南はいつもさらりと強烈なことを言う。近藤は僅かに身構えた。
「呑むなとも酔うなとも言いません。勤務時間外に何をしようが本人の自由です。うっかり羽目を外して仕事を遅らせるようなことも、人間ですから一度や二度は、まあ仕方がない」
「…はい」
「と思いながら3度めも4度めも5度めも6度めも7度めも許してきました」
「…つまり今回は8度目」
「12度目です。そこまで来たら何度でも同じだ。部下の責任をとるのが私の仕事ですから私ひとりがどうにかすれば済むことなら構いません。今回もデッドは月曜日ですから致命的なミスではない。しかし彼は坂本さんにも現場にも迷惑のかけ通しだ。反省はするが続かない。20度でも30度でもやるでしょう。社の信用に関わります。もううちにはいりません」
近藤は先程土方から「俺からも謝るから山南を宥めろ」と連絡を受けたのだが(何で土方が謝るのかさっぱり分からないが)そういう事情であれば庇い難い。山南の言うことはもっともだし坂本は大事なお得意様だ。地味に活字と格闘させるよりは、愛想を武器に営業でもさせたほうが、原田には向いているかもしれない。いい機会だ。
ただ。
「いらない」とは随分と手厳しい。
近藤は手の中で万年筆を回しながら慎重に言葉を選んだ。
「…山南さん。原田くんも少しは編集二部に貢献したのではありませんか」
「勿論です。プラスよりマイナスのほうが少々多いだけのこと」
「原田くんでないと、代わりがきかないこともあるでしょう」
山南は膝の上に置いていた手を組んだ。そして微笑った。
「代わりがきかない人なんかいませんよ」
人の少ない社内は静まりかえり、遠くで鳴く鳥の声が妙によく響く。
「近藤さん、貴方は勘違いしている。長年同じ仕事をしてプライドが芽生えると、自分の代わりはいないと思い込む。ここが自分の居場所だと信じ込む。錯覚です。私がいなくなっても誰かが代わりにやる。土方くんが消えても誰かがなんとかする。あっという間にいないことに慣れる。例え近藤さんでも同じ事です。貴方が明日死んだからといって会社がつぶれる訳じゃない。誰が消えても大丈夫なように組織というものがあるんです。かけがえのない人なんか誰もいません」
…かけがえのない人なんか、誰もいない。
近藤の脳裏を「かけがえのない」で1番に連想した男の顔がちらっと過ぎった。
「…山南さんは、本気でそう思うんですか」
「今、土方くんのことを考えましたか?」
不意をつかれて万年筆が手から滑って落ち、机の上を転がった。山南さんは、苦手だ。
「…ええ、いや、別に、歳だけって訳じゃありませんが」
「それは貴方の個人的な愛情であって仕事とは別のことです。私も個人的には原田くんのことが好きです。彼の代わりになる人などいません。ただ、今は仕事の話をしている。混ぜて欲しくない」
「…よく分かりました」
近藤は自分の浅はかさに思わず穴掘って埋まりたくなった。もう山南さんに社長やって欲しい。自分だったら原田を切れない。いくら原田が楽天家でも多少は傷つくだろうし、少しは山南を恨むだろう。山南は人に好かれたいとか嫌われたいとか思っていない。そんなことはどうでもいいのだ。仕事は仕事で割り切れる。自分は上に立つ者として甘すぎる。土方のことといい山南のことといい、私情も仕事もごっちゃごちゃだ。
「…近藤さんはいい人ですね」
いきなり山南がぽつんと呟いた。
「え?はい?」
「いえ何でも。ご心配おかけして申し訳ありませんでした。お話がそれだけでしたら、私はこれで」
山南は入ってきた時とまったく同じ調子で礼儀正しく頭を下げ、立ち上がった。
「あの、山南さん。もう少しお時間を頂けませんか」
「はい?」
近藤は大きく息を吸った。
「個人的な話がしたい」
山南はドアノブを握った姿勢でしばらく近藤を見ていた。それから、そのままドアを開けた。
「土方くんのことなら、土方くんから聞いたほうがいいと思いますよ」
パタン。
一気に緊張の糸が切れて、近藤はずるずると椅子を滑り落ちた。
…怖い人だな。
13時。
「……びっみょーにゲロくせえ」
新見は助手席を倒して後部座席に身を乗り出し消臭スプレーを振り撒いた。
「吐いたはずはないんですがね」
「酔っぱらいの体臭そのものだ。土方なんぞほっときゃいいのにてめえがのこのこ」
「ああ、そうか。先生と同じ匂いなんで気付かなかった」
芹沢が睨むのを、新見は無視した。
昨日より若干温度が上がった空は、とんでもなく青く遠く澄んでいる。週末に東京を離れる道路は軒並み大渋滞なので近場の丘に登ったのだが、まあまあの景色だ。ただ紅葉の盛りにはやはり出遅れて、枝についた葉より積もった葉のほうが遙かに多い。
「さて、紅葉は見た!寒いから帰る」
「はいはい」
芹沢は行事をなぞればそれで気が済むのだ。情緒のへったくれもない。
「おーい、てめえら!帰るぞ!」
「えー来たばっかりじゃないですか!押し花にする葉っぱ探すからちょっと待っててくださいよー!」
視線の先には落ち葉と戯れる沖田、藤堂、これまた結構楽しそうな斉藤。まったく情緒のへったくれもない。
新見は車から這い出て運転席側のドアに凭れると、まだしばらく動きそうにない連中を横目に煙草に火を点けた。
別にふたりきりで紅葉デートなんて甘ったるい間柄でもないが、だからっていきなりこれじゃ幼稚園の遠足だ。芹沢がお気に入りの沖田を誘ったら「昨日喧嘩したから仲直りしたい」とか何とか言って後のふたりを連れてきたのだが、落ち葉拾って仲直りできる程度なら人を巻き込まずに勝手にさくさくやってくれというんだ。迷惑な。
下から吹き上がってくる風も、今日は少し温かい。高度はさほどでもないが、東京の平野が一望できる。
あのへんが会社か。どうなったかね土方たちは。どうもなってないな多分。
こっちもどうもなってないぜ〜。
「新見先生よ」
「はい」
芹沢のほうも園児達を呼び戻すのを諦めたらしく、これも助手席のドアに凭れて上を見上げ、次々降ってくる紅葉を目で追っている。
「おまえは土方の味方か?」
「どういう意味です」
「えらく構うじゃねえか」
「…は。見てられないだけですよ。ぎゃあぎゃあうるさいところが先生と似てる」
「俺は山南だなぁ。根性拗くれてプライドばっか高ぇところがおまえと似てる」
…綺麗だ。赤と青と黄色。自然の色は単純だ。
単純なことを単純に口にするには、私も山南も相手を好きになりすぎた。怖いじゃないか、だって。何か決定的な事を言うと重荷になる。進めなくていいから変わりたくない。このままどうにもならなくていい。そんなこと、芹沢や土方には理解できないんだろうが。だからこんなふうにいちいち言わせようとする。
「新見」
「はい」
「俺に惚れてんだろ」
「いいえ」
「好きなんだろ」
「普通です」
「へぇ〜。そうかい」
こんな会話はいつもの事だ。これ以上先に行ったことはない。
でも今日は。
新見はひとつ溜息をついて、降ってきた紅葉を一枚宙で掴んだ。
「…普通に、好きですな」
「ぶん殴りてぇほど往生際が悪ぃな」
…頑張ったんだが。これでも。
沖田がコートのフードに落ち葉を山盛りに詰めて走ってきた。
「新見さん見てこれ!綺麗でしょ。全部栞にして、週明けに会社のみんなに配りましょうよ」
「…押し花ってのは1日で押せるもんなのか?浅漬けみたいなもんか?」
「今から会社行ってプレス機で真空パックですよ!新見さんなら総務部権限で使えるでしょ?」
芹沢が後ろでぷっと噴き出した。
「会社の備品を私用で使うと犯罪だ」
「分かってますよ」
「分かってない。コピー本の表紙を会社のカラーコピー機で刷った武田が3ヶ月減給くらったのを忘れたか」
「大丈夫ですよ売るわけじゃないし。バレても源さんは私に甘いから怒んないよ。ね!ね!ね!ね!お願ぁい!」
「…こいつは広告もこんな調子でとってるのか?」
藤堂は「ははは」と複雑怪奇な顔で笑い、斉藤はそんな藤堂の肩をぽんぽんと叩いた。
こいつらにも多分、色々あるのだ。
13時半。
原田が途中で放り出していたゲラを鞄に突っ込んで山南が家の前まで戻って来たところで、中から勢いよく戸が開いた。
「おかえり!!」
「おや。まだいたんですか」
「白々しい!!」
山南は荷物を抱え直すと、ああ、と頷いた。
「そういえば鍵を渡しておかなかった。なるほど、それで帰りたくても帰れなかったんですね。いやいや、私も今言われて初めて気がついた訳ですが」
「嘘を言え」
「怒鳴れるところを見ると2日酔いは治りましたね。結構結構」
山南はまだパジャマの土方を、やんわり家の中に押し戻した。
「…どうしてあんたは帰って欲しくないならないと素直に」
「ケンタッキー。お好きでしょ。食べます?」
「…しっかり二人分買って来といてまだいたんですかも何も」
「そうですか。おなかは減ってませんか」
結局山南は誰が何と言おうとしたいようにしかしないのだ。
「……あんたの顔見たら急に減ったわ」
「それはよかった」
山南がコーヒーを淹れる間に、土方はようやく顔を洗って服を着た。このままパジャマでいたら本当に帰るタイミングを失ってしまう。近藤からは、今晩は親が死のうと槍が降ろうと何が何でも家に来いと念には念を押されているし。それもこれも今日といい昨日の会議といい、山南が変に近藤をつつき回すからだ。
「あ!あんた、さっきかっちゃん虐めたろ」
そうするとは思ったが、山南は聞こえないふりだ。
「おい!こら!バレてんぞ!ただでさえあいつは身内贔屓だ副長贔屓だ言われて気に病んでんのに」
「本当に身内贔屓じゃありませんか。中途入社の方はみんな、沖田くんだの貴方だのの待遇が良すぎるんで不満たらたらですよ」
「しょうがねえだろ人間なんだから。古い馴染みなんだ、つい贔屓しちまっても当然だ」
「当然でもこっそりやりなさいというんです。社長なんだから」
山南はなみなみとコーヒーを注いだカップを土方と自分の前に置き、どばっと(としか形容しようがない入れ方で)砂糖を入れ、この男にしてはかなり乱暴にぐるぐると掻き回した。
「少なくとも一社員の前で“歳”はない」
土方は半ば呆れつつ、油で汚れた指を山南が舐めるのを眺めた。ちなみに土方はケンタッキーフライドチキンが好きな訳ではなく、山南が食べるのを見るのが好きなだけだ。どう上品に食べようとしても絶対にうまくいかないところが。
「…大人げねぇ」
「何がです」
「歳ぐらいでむかっときて虐めんなよ。あんた見た目のわりに子供だな」
「イジメとは心外な。ちょっとした些細な八つ当たりです」
近藤が、あまりにも素直に土方が好きだをアピールするから。
「…今度かっちゃん余計なことで悩ませたらあんたでも殴るぞ」
「もうしません」
山南の口調が微妙に変わったので、土方は肉を頬張ったままちらっと目を上げた。
「…君が素面になったら言おうと思ってたんですけどね」
山南は口の中のものを全部飲み込んでしまうと息をつき、また砂糖を入れ足した。
「おい。糖尿になるぞ。怖ぇぞ糖尿は」
「近藤さんは君のことが好きなんでしょう」
「当たり前だろ。ぞっこんラブだ。両思い様々だ。おい入れすぎだ!疲れてんだろ、あんた」
「そういう好きじゃない。本気でだ。中学の頃から。ずっと。君は気付かないふりしてるみたいだが」
土方が見るに見かねて手を掴むと、山南はようやく溶けきれない砂糖を溶かす努力を止めた。
そして、顔を上げた。
「近藤さんときちんと付き合ったらどうです」
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