ACT.5


 
 0時13分。
 今にも線路へ押し出されそうな終電待ちの駅のホームで、山南は掌を擦りあわせた。
 寒い。あちこちが。
 土方に思いっきりぶちまけられた酒が服だの髪だのに染みこんでいる。
 自分ではもう鼻が慣れて匂いも気にならないが、周囲にはさぞ迷惑だろう。実際には金曜の夜にアルコール漬けになった乗客達はまったく気にしちゃいなかったが、生真面目な山南は気持ち小さくなってホームの端へ一歩寄った。
 
 土方と別れてから4年とちょっと。20代の恋愛全盛期に4年も時間があれば、とっくに新しい相手と付き合って別れてを2,3回、いやもっと繰り返しててもいいはずだ。
 土方が忘れられなかったというより、自分が幸せになったり楽しい気持ちになることが土方に申し訳なくて、ただ仕事だけをしてきた。他に何もしなかった。心に少しでも余裕ができれば、そこに仕事を細切れにして隙間なく押し込んだ。
 土方が出版社に入社したと知った時は文字通り仰天して、しばらく口がきけなかった。よっぽど思い切って連絡しようかと思った。何考えてるんだ。何故よりによって同じ業界に入るんだ。こんな狭い世界で同じ仕事をしていたら絶対に会ってしまう。自分が憎いなら、それこそ何の関係もないところへ行けばいいのに。影も形も見えないところへ行けばいいのに。それともこれは挑戦か。君を裏切って捨てた私への、これは、意地か。

「俺とより戻してえのか」
 土方は真顔だった。からかう口調じゃない。
 山南の返事は数秒遅れた。
 もう一度会いたかった。夢に見るほど思った。流れ星を見るたび思った。賽銭箱の前で手をあわせるたび思った。
 もう一度、声を聞いて、顔を見て、例えどんなに憎まれていてもいい、4年前のあの時以上には憎まれようがない、傍にいて、君を見ていられて、幸せになってくれるなら自分とじゃなくていいから、もうそんなこと望まないから、その代わり君の仕事のためなら何でもする、憎まれ続けていい、張り合い続けていい、もう仕事で役に立つ以外、君にできることは何もない。
 山南が入社した途端、土方の部署の売り上げは2倍近く跳ね上がった。一部と二部が戦ってくれるおかげで業績が伸びる、それは日頃ふたりの犬猿ぶりに辟易している部下たちも認めていた。屋上で土方が涙を見せた時、延ばした手を避けなかった時、もしかしたら、せめて、友達になれるかもしれないと思った。あんなに好きだった男、今でも好きな男に、ずっとずっと憎まれ続けるのは、当然の罰だと覚悟していても辛い。だから許してくれとは言わないが、もしかしたら自分に向かって笑ってくれる日がまた来るかもしれない。そう、血迷った。それだけだ。
 よりを戻そうなんて望むほど、恥知らずじゃない。それに今は、土方には近藤がいる。
 土方にだってそんなつもりはこれっぽっちもないはずだ。4年前の土方の最後のセリフを覚えてる。

 会わなきゃよかった。あんたといた2年間、俺は丸々無駄にした。

 自分の仕事は土方を煽って張り合って競争して上へ上へ追い上げること。それだけだ。
「…土方くん」
 長年培った精神力の賜物か、山南の動揺は顔には一切出なかった。どころかまったく不自然でない微笑さえ浮かんだ。
「君はやっぱり仕事のしすぎだ。家に帰って寝たほうがいい」
「…返事になってねえ」
「なってますよ。大真面目な顔で何言うかと思ったら。すいませんね、何か誤解させたみたいで」
 土方は無言だ。
 終電の時間が近くなった店内は徐々に混み出し、騒がしくなったその音に助けられて舌がするする回り出した。
「君は私が嫌いでしょう。私も君が嫌いです。でなきゃわざわざ別れない。今はそのことでお互いの仕事が巧くいってるんだから何の問題もない。ただ君の態度があまりに露骨だから永倉くんや原田くんが君に反感を抱いているんです。君には幼馴染みの社長が味方についてますし地位も安泰でしょうが、我々新参者はそうはいきませんから、彼らの立場が悪くなると私も困る。だから阿部栞の件では君に恩を売ったんだ。少しは私に感謝して態度を改めてもらえま」

 バシャン。

 店の連中が一斉にこっちを見た。
「そうかい」
 氷ごと飛んできたグラスの中身は、時間をかけて服に染み、パタパタ音を立てて床に落ちた。
「一瞬でも誤解した俺が馬鹿だった」
 来た時と同じ勢いで土方が店を出ていき、扉が閉まるまで、山南はそのままでいた。
 それからようやくおしぼりで顔と服を丁重に拭いた。手つかずのピザまで酒を被って、もう食べられたもんじゃない。
「…勘定ぐらい置いてってくださいよ」

 酒が浸みて、目が痛い。

 0時30分。
「歳?俺だ。今どこ」
 履歴書を前にうんうん唸っていたら、終電をすかっと逃した。
 あっさりタクシーで帰ることにして、近藤は私用で使うなと散々井上に念を押された社長室の電話から、土方の携帯を鳴らした。
『…新宿』
「新宿?なんで。まあいい、明日暇か?うちで鍋でもどうだ。ちょっと話がある、プライベートなことだから会社じゃないほうがいい」
 間があいた。いつもはこちらがまだ話してる最中に返事する奴だ。
「…歳?」
『…せっかくだが明日は無理だな。1日中会社に詰めてる』
 近藤は眉を顰めた。なんだこの声は。本でも読んでるみたいだ。
「…じゃあ日曜」
『日曜も』
「歳!」
 今にも切りそうな気配を覚えて近藤は思わず立ち上がった。
「聞け歳、機械じゃないんだ、しまいには体がいかれるぞ。週末のどちらかは無理にでも休め。おまえ少しは手抜きってものを覚えろよ、仕事中毒じゃないのか?おまえおかしいぞ、なんだってそう仕事仕事だ。山南さんが来てから特に」
『あんたのためだろうが!』
 いきなり怒鳴られて近藤はその場で飛び上がった。
『俺が働きゃ業績あがって黒が出て株価あがってあんたが喜ぶと思うからやってんだろうが近藤さん。会社のためだ。なんで社長のあんたに休め休め言われなきゃなんねえんだよ』
「…そうだな。すまない」
 素直にひけば素直に返す奴だ。長い付き合いで土方のことはよく知ってる。
『…いや、俺が悪かった。…やっぱ疲れてるみてえだ。明日また電話する』
「ああ。ゆっくり寝ろ。じゃあな」
『うん。おやすみ』
 最後は実に「歳」らしい返事で切れた。
 そんなことでたちまち幸せになれる自分の単純さを非常に喜ばしく思いながら、近藤は受話器を下ろした。
 それから慌てて履歴を消した。

 1時15分。
 満月だ。
 会社をさぼって外で何軒も梯子し自宅に帰ってきたばかりの芹沢は、月を見るなりいそいそとベランダにお気に入りの椅子を引っ張り出した。他人から見ても自分から見ても医者から見ても立派にアル中の芹沢だが、酒があれば何でもいいというものではない。そもそも酒はひとりで飲むものではない。こんなに月が綺麗な晩に月と飲まなくて何とする。
「芹沢先生」
「…あん?」
 芹沢が2階のベランダから身を乗り出すと、コンビニの袋をぶら下げた新見がひらひら手を振っていた。
「…なんだ?早寝早起きが信条の新見先生にしちゃ珍しい。お休みの時間じゃねえのか」
「月が綺麗だったもので。あがっても?」
 芹沢が無言でエントランスのほうをしゃくると、新見は笑ったように見えないこともない顔をしてそちらのほうへ姿を消した。
 新見とは学生時代からのくされ縁だ。そういう家系に生まれたせいもあるのだが、中学の時からもう組抗争に片足突っ込んでるような芹沢には、恐ろしいほど頭が切れて常に冷静沈着な新見は貴重だった。新見は新見で元々が参謀気質で、立ってるだけでその場を支配する芹沢にくっついているのが楽だった。格別べたべた連んだ覚えもないのだが、気が付くといつもその辺にいるのだ。まさにくされ縁だ。
 法律の専門家になってくれたのも実におあつらえむきだった。理由を聞いたら「先生がムショに入った時に恩を売るために」と本気だか冗談だか分からない、いつもの一本調子で淡々と答えた。
「お邪魔しますよ」
 新見はすたすた入ってきてさっさと自分のぶんの飲み物を作り、コートを羽織ったままベランダに出てきた。
「今年は冬が早いですな。早いとこ出かけないと紅葉が終わっちまいますよ」
「…酒の肴があったんじゃねえのか」
「チーズとサキイカ。コンビニで申し訳ないですが」
「とぼけんなー」
 芹沢は足を延ばして、椅子がないので柵に凭れて立ったまま飲んでいた新見の膝をコンと蹴った。新見は僅かに口の端を上げた。
「お仕事です」
「んだあ?また土方の尻ぬぐいか。あのガキ可愛い顔して汚ねえ仕事ばっかしやがって何件訴訟起こしゃ気が済むんだ?またどっかのタレント勝手に使ったとかか?グラビアアイドルの事務所なんざほとんどヤー公だろうが、あいつよくまあ闇討ちされずに今までご健在だよ」
「そりゃ訴訟をつぶして回ってる先生も同じだ。今回は土方じゃない」
「誰の尻ぬぐいだよ。近藤じゃねえだろうな。そりゃ気合い入れて拭うぜ」
「山南です」
 芹沢は、さっきまで新見がいたところに派手に噴いた。
 新見は一歩下がって芹沢にハンカチを差し出した。嫌味なほどに一部の隙もない秘書だ。
「…山南が何した」
「いやいやそれが面白い話で。タレントとタレントが離婚するんで山南が片方の手記を出すらしい」
「ほお。まったく興味ねえがアホどもにゃ売れそうだ」
「離婚の理由が片方の浮気で」
「ありがちだな」
「それが吃驚、浮気を仕組んだのは山南本人」
「手記1冊出すために?その?なんだ?男のほうか女のほうか知らんが、どっちかを山南が寝取ったのか?」
「…普通、女のほうだと思いますがね」
 新見は無表情に月にグラスを翳した。
「山南本人だか手練れを差し向けたんだかヤバいパーティーにでも連れてって調教したんだか、そのへんは知りませんよ。でもまあとにかく山南がネタのために離婚に手を貸したのはほぼ間違いないですな。あの男、案外土方に負けず劣らず無茶苦茶だ。ま、ちょちょっと金積んでちょちょっと脅せば済むでしょうが」
 芹沢はチーズの銀紙を剥きながらしばらく宙に目を据えていた。
「…俺ぁよく分かんねえんだがよ。あいつら何でそこまでする?女囲ってる訳でも高級車乗り回してる訳でもねえのにそんなに金が欲しいのか?作った本がちっとばかし売れたからって給料が倍になる訳でもねえだろうが。周りに恨まれて下手すりゃ後ろからガンとやられて終わりじゃねえか。金じゃなきゃ何のためだ?近藤か?」
 聞いてるうちに眠くなったのか疲れたのか、新見はずるずると柵に凭れたまま座り込んだ。
「…勘ですがね」
「勘で構わねえよ。おまえの勘は信用してる」
「勝ちたいんでしょうな」
「誰に」
「お互いに。土方は山南に。山南は土方に」
「何で」
「さあ」
 新見は小さく欠伸した。
「勝ちたいと言うか、認められたいんでしょうな。自分はこんなに凄いんだ、だから認めてくれ誉めてくれ気にしてくれってね。ガキがよくやるアピールですよ。…私もガキだから少しは気持ちが分かる。だからほっとけない」
 だんだんと声が小さくなり最後のほうはほとんど呟きになった。と思ったら、新見は急に顔を上げた。
「先生、泊めてもらえませんか。眠くなった」
「おまえ何時から下で張ってた?唇真っ白だぜ」
「…4時間ほど」
 月が翳った。芹沢はよいしょと腰をあげ、チーズをポンと口に放り込んだ。
 それからちょっと笑った。
「確かにガキだな」

 

 



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