ACT.4





 22時。
 山南は時計を見上げ、眼鏡をはずしてゴシゴシ目蓋をこすった。
 基本的に夜に弱いのだ。昔は徹夜でも平気で飲み歩いてた気もするんだが、あの時と何が変わったんだろう。歳とってんですよ。そうでした。
「原田くん、私、そろそろ失礼して大丈夫でしょうか」
「おう、もう平気。手伝ってもらっちゃってごめんねー山南ちゃん。いつも8時には会社出てんのに」
「いえいえ明日の夕方には仕上げて机に置いといてくださいね。取りにきますから」
 眼鏡を磨く→机を片づける→携帯をチェックする→パソコンの電源を落とす→机の上の消しゴムのかすをゴミ箱に入れる。毎日きっちりと同じ順番で山南が帰り支度をするのを、原田は椅子をギコギコ言わせながら見守った。
「なー…毎日そんな早く家帰って何してんの?ゲームとか?ネットとか?苔とか?セックスとか?」
「苔とかです」
「セックスとかは?」
 原田の額にぱちんと定規が当たった。
「先月の経費精算書、貴方だけ未提出。河合くんが泣きますよ」
 それじゃ、と山南は爽やかに手をあげて上着の裾を翻し、さっさと出ていってしまった。
 猥談にものってこねーし夜遊びもしそうにねーし賭け事もしねーし友達もいねーし(推定)毎日何が楽しいんだろ。何気に謎な人だな。
 原田は山南のことを「親切で仕事できてかわいいなー」と好意的に見ていたが、上司だろうが先輩だろうが局長だろうが大統領だろうがバンバン肩叩いて腹割りまくりたい原田には、一緒にいると何だか、だんだん寂しくなる相手だ。もしかしたら翌日この席にいるのが別人でも気にしないんじゃないかと思う。まあ俺には新八ちゃんがいるからいいけどー。
 …新八。
 5分でできる仕事に16時間かけられる特技の持ち主原田は、目にも止まらぬ早業で上着の袖に腕を通すのと鞄を掴むのと携帯をスクロールするのとを同時に、しかも完璧にこなした。
「新八ちゃん!今どこ!」
『……中野の高架下だ。あと20分で家に着く』
「もうもうもうなんだよ俺忘れてたよ今日金曜だよ〜?呑みにいこーよーはい戻って戻って!俺、今から会社出るから新宿あたりでふたりはばったり出会うはずだぜ。一本道だから」
 どこが一本道だ。どんな国だそれは。
『…あのな左之助。おまえ少し我が儘だぞ。どうしてそういつも唐突なんだ』
「我が儘じゃねえだろ。希望を申し伝えてんだろ。俺は新八ちゃんと会いたいんだよ」
『毎日会ってるだろうが!』
「毎日会ってても会いたい!!!」
 原田の大声はフロア中にガンガン響き渡ったが、皆慣れているので気にしない。ついたての向こうで数字とにらめっこしていた土方だけが顔を上げた。
「今会いたい!どうしても会いたい!会って新八ちゃんの笑った顔みたり怒った顔見たりいや〜愉快愉快!て言わせたい!そんなの何回やっても飽きねえ!俺はそうしたいけど新八ちゃんが嫌なら断りゃいいじゃねえか、断って俺が新八のこと嫌いになったり怒ったりしたことねえじゃねえか、それの何がどこがどのように我が儘なんだよ!」
 …毎日会ってても会いたい。
 土方は口の中で復唱してみた。毎日会ってても、会いたい。
「…武田」
「はい副長!」
 副長と呼ばれるのを土方が忌み嫌ってることにまったく気付いていない、頭がいいのか悪いのかさっぱりな部下がすちゃっと飛んできた。
「毎日会ってても会いたいものってあるか」
「もの?」
「…いや。あー。……人でもいい」
 武田はふむと考え込み、すぐさま手を打った。こいつの眉毛はよく動くな。
「副長ですな」
「マジかよ!!」
「…何を想像なさってるんです。おかしな意味はございませんよ」
「あああああそうか。すまない。どうかしていた」
「私は現在仕事がすべてでございますから。仕事の象徴である土方さんが今日も健在であることは、すなわちマイライフの健在を示すとでも申しましょうか?姿が見えないということは、これ、非日常。すなわち異常事態でございましょう。落ち着きませんな」
「…なるほどな」
 日常、か。
 土方の脇を、ほとんどスキップせんばかりの勢いで原田がすっとんで行った。


 23時。
 …そういえばギネスブックに。
 山南はずれた眼鏡を抑え、鞄が人波に押し流されていかないようしっかり抱え直した。
 電話ボックスの中に何人人が詰め込めるかって記録があったような。誰が最初に思いついたんだそんなこと。
 金曜の新宿は思わずそんなことを連想するほどの混雑だ。週末にこんな町へわざわざ出てくるなんて、普段の自分の性格からいって金を積まれてもしたくない経験だったが、今日はなんとなくそういう気分になった。
 繁華街を抜け出して人のいない方へいない方へと進み、雑居ビルの階段を4階まで上がる。何年ぶりだ。4年か5年か。
「いらっしゃいませ」
 折り目正しく出迎えてくれたバーテンは知らない顔だ。カウンターの中も見知らぬ顔ばかり。相変わらず客席の照明はキャンドルだけで全貌はよく分からないが、前よりカウンターも窓も広くなった。テーブルも変わった。
 この店が混み出すのは終電後で、今は7分空きといった感じだ。山南は店内を見渡して、ちょっと迷ってから窓際のツールに腰を下ろした。
「ボトル入れてもらおうかな。メーカーズマークの赤」
「お名前は」
「山……いや、土方で。土の方角と書いて土方」
 バーテンが引っ込んでから、山南は頬杖をついて窓から下を見下ろした。不況なんてなんのそのタクシーのブレーキランプで道路は真っ赤だ。
 …どうしてこんなに人が多いんだ。
 人口の問題というよりは、東京は同じ所に人が集まりすぎる。自分も昔は毎晩毎晩この町で呑み明かして、最後は必ずこの店で締めた。あの時はこの町が面白かった。この景色も好きだった。今は他人のようだ。メニューを捲ってみても様変わりしていて、お気に入りだったメニューが消えている。

 ここはプレーンピザが美味ぇの 生地とチーズだけで タバスコどっさりかけて

 こんなに人が多くて、こんなに時間が流れているのに、どうしていつまでも自分は動けない。
「…土方くんなの?」
 妙に甲高い声で振り返ったところに、昔と同じ髭面のマスターがいた。
「なんだ!山南くんじゃない!」
「…あ、どうも」
「ひっさしぶりねえ何土方でボトル入れたりしてんのよ。あのツラが何をどうしたら数年でこうなるのかと思ったわよ。うわあ、あんた全然老けないわね。むかつくわ。私なんか週に2回のエステ通いも虚しく酒の飲み過ぎで4キロも太っちゃって意味ないっつーの。何、何、今日土方くんも一緒?あの子少しは色素沈着した?」
「…よく覚えてますね」
「そりゃ毎日あんな風変わりなコンビが来てりゃ覚えるわよ」
 ああそうだった。相手がなまじ童顔なもんだから、補導された不良高校生と引き取りに来た担任教師みたいだと随分からかわれた。
「それよりなんで土方?結婚でもした?」
「いえ生憎。ちょっと言ってみただけです。…マスターがいると思わなかったな。恥をかいてしまった」
 マスターはしばらく山南の目を覗き込んでいたが、よしよしと頭を撫でてからロックを作ってくれた。
 ところでいわゆるゲイであってオカマさんでも何でもないのに女言葉の人が多いのは何でなんだろう。まあいいけど。
「話し相手が欲しかったらカウンターに来れば相手してあげるけど」
「もしかしたら後で行くかも知れません」
 山南はちびちび酒を舐め、ボトルのタグを指で回した。
 土方。土の方角。…土の方角?どっちなんだ。下?…変な名字。名前も変だけど。歳三・三歳とかいう写真があったりするんだろうか。あるんだろうな。いくら猪突猛進でも2歳から4歳に飛ぶ訳あるまいし。あれ?土と書いて「ひじ」と読むか?
 山南は携帯でひじと打ってみた。
 …読まないか?いやそれを言ったら南と書いてなみとは読まない。漢字がふたつ並んで初めてそこに音が発生する名字。なかなか素敵だ。意義深い。他はどうかな。近藤。斉藤。藤堂。…藤が多いな。原田。沖田。武田。…田も多いな。新見。しんと書いてにい…は読む。新妻って言うからな。って一発目に新妻ですか私。永倉。芹沢。井上。…いのうえ?「の」はどこから出てきた?河合。「かわ」と「あい」でかわい?「あ」はどこへ消えた?
 つらつらとどうでもいい事を考えていたら、突然手の中の携帯が勢いよく震えて、すぐ止まった。
 山南は思わずテーブルの上に落とした携帯を、自分でも気付かないうちに息を止めて見下ろした。
 …土方。

「おす」

 ドサっと隣の席に鞄が落ちてきた。
「きゃー土方くん!いらっしゃい!」
「…なんだよカマ野郎。まだぐずぐず古巣にアグラかいてんのか」
「私はオカマじゃないって言ってるでしょ!…うわ何センチ伸びたの。シークレットシューズ?」
「古いよ!ネタが!」
 土方は呆然とする山南の前でぐるっとボトルを回して自分の名前が書かれたタグを見たが、特に何もコメントしなかった。
「マスター。グラスとプレーンピザ」
「あんたはどこの芸能人よ。何年もご無沙汰しといて常連ぶってんじゃないの。今はプレーンピザは置いてない」
「アンチョビピザのアンチョビ剥がせ」
「ちょっと山南くん、何この子!我が儘!」
 山南はタグをひっくり返すのに必死でまったく聞いていなかった。
「俺は余計なもんののってねえピザが食いてえという希望を申し伝えてんだよ。出せねえなら断れ。それの何がどこがどう我が儘だ」
 土方は言うだけ言うとようやく腰を下ろし、山南のグラスをひったくって一息で空けた。
「……来ると思いませんでした」
「俺もあんたがいると思わなかった」
「…ちょっと思いました」
「俺もちょっとは思った」
 土方は一度もまともに山南を見ない。目の前に広がる夜景を見ている。窓の外から飛んでくるネオンが土方の顔に青や白や赤や、色とりどりの光で照らしては流す。
 土方がいたから面白かった。この町は。
「…改装したんだな」
「…そうですね。綺麗になりましたね」
「マスターは汚ねえままだけどな」
 汚いままでよかった、とふたりとも思った。山南は何から何まで綺麗さっぱり思い出が拭われてしまったら寂しいからで、土方はマスターのおかげで話題に困らないと安心したからだ。同じ会社に勤めながら寄ると触ると険悪なふたりは、同じ呑みの席に呼ばれることはない。忘年会とか新年会とか近藤さんのお誕生日だとか、欠席不可のイベントでもなければ絶対に同席しない。それも周囲が気遣って、怪しいほどに席を離してくれる。サシで呑むなんてまずあり得ない。
 内心土方は焦っていた。会社ではぎゃあぎゃあ何でも好き放題言えるが、夜景の見える薄暗いバーに肩並べて座ってさて話せと言われても非常に気恥ずかしい。弱ってたとはいえ、よりによって、山南に、あんなとこ見せたばかりで。
「…あの」
 山南も何だか声が上擦っている。
「…仕事は?今日はおしまいですか」
「…仕事の話しに呼んだのかよ」
「呼んでませんよ」
「呼んだようなもんだろ」
「誰が!」
「あんたなぁ!」
「はいお待たせ!!」
 ふたりの間にピザとグラスがガンガンと置かれた。
「喧嘩しないでねっ」
 首の骨をコキコキ鳴らしながら去っていくマスターを、土方は肩をすくめて見送った。
「…あいつに何か話したか」
「…何話すんです。今は土方くんとは犬猿の仲ですってわざわざ説明するんですか」
 ふたりはしばらく無言で、窓に映るネオンを眺めていた。
「…何考えてんだ、あんた」
「別に何も」
「会議の席で事故のことなんか持ち出して。俺は中学卒業してからの7年間のこた、近藤さんに何も話してねんだよ。話す気もねえしな」
「賢明だ。1年で百人食ってたなんて話、わざわざ君のことが大好きな近藤さんにする必要はない」
「…あんた、最近、昔のことばっか思い出させようとする」
 迷った時の癖で、土方は頭の後ろで手を組んだ。何度か唇を舐めてから、一気に言った。

「俺とより戻してえのか」



 23時半。
 土方歳三 K大経済学部経済学科政治経済学専攻。
 山南敬助 T大文学部総合人文学科倫理学専攻。
「……違うか」
 履歴書の写しを2枚並べたその前で、近藤は深々と溜息をついた。同じ大学だったりして!ってのは流石に安直だったか。いや待て仮に同じ学校でも学年が違えば滅多に知り合いになんかならないんじゃないのか?サークルが同じとか下宿が同じとかでないと。
 近藤ははたと立ち上がり、社長室の中をぐるぐる回り始めた。
 落ち着け、まずは落ち着け俺。何もふたりが前から知り合いだったとは限らない。何かのはずみでちょっと昔の事故の話が出て、それをたまたま山南さんが聞いたってだけで。本人に確かめればすむことだが、歳に向かって山南さんの名前を出すと不機嫌になるし、山南さんに聞くのも、なんだか、社長の自分がもの凄く小さい男であることをわざわざばらすみたいで気がすすまない。
 山南さんの面接は俺と歳と源さんの3人でやった。歳はいつもとまったく変わった様子はなかった。歳のことで自分が知らないことを山南さんが知ってたってだけのことが、何でこんなに気になる。
 歳は山南さんが嫌い。そうだろ。そのはずだろ。理詰めの低血圧は歳が尤も嫌いなタイプだろ。山南さんも歳が嫌い。そりゃそうだ。あんな乱暴な熱血漢は苦手なはずだ。
 でも、でもだ、もしかしたら、嫌いなほうが強いってこともあるんじゃないのか。好きな奴より嫌いな奴の存在のほうが大きいってこともあるんじゃないのか。俺と歳は親友だ。大親友だ。俺には歳が一番だ。でも歳には俺が一番か?歳にとって一番でかいのは俺か?
 近藤はようやく足を止めた。止めた瞬間ぐらんと視界がまわって壁にどんと手をついた。

 俺は汚い。山南さんに本気で妬いてる。
 
 
 
 
 



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