ACT.3


 
 同じく18時。
 坂本は重量10キロ近い原稿を後部座席から引っ張り出し、軽々と担いで足でバンと戸を閉めた。
 坂本龍馬。印刷業界最大手の営業部長である。
 一日3回4社を回り、出稿物を届け入稿物を回収し現場と編集との間にたって進行の摺り合わせをし、発売日に書店に並べるべく取次に搬入するのだが、これがまた半端なく大激務で朝も夜も休日も祭日もない。1年中年末年始が楽しみだ。勝手なこと言う現場と勝手なこと言う編集の間を取り持つのは毎日薩長同盟締結しているようなもんで、頭も使うし力も使うし気も使うし薄給だし、あー!何でこんな仕事しちょるんじゃろ!
 と時々我に返る坂本さんだが何でも何も山南だ。山南が言うから。
 貴方みたいな人が出版業界には必要なんですってゆーからー。
「毎度!」
 坂本は3階フロアの扉を勢いよく開けた。
「あ、坂本さん!ご苦労様です!」
「おう、お疲れさん!精が出るのう」
「3月の別冊、月刊化決まりましたよー」
「おーそりゃ目出度いこっちゃ!またおまんらに毎月泣かされるんじゃけぇたまにはバーンと奢れや!」
 疲れていてもそこは坂本、威勢よく左右の声に答えながら廊下をズカズカ直進し、勝手知ったる編集2部の山南の机にどさっと出稿物を置いた。
「…あん?山南さんは?もう帰ったんかい」
「んー鞄あるから、まだどっかにいると思うよー」
 おやつを食いながら校了中の原田が顔を上げた。
「知ってる?山南ちゃんの鞄てなんでかいっつもすぐボロボロになっちゃって、しょっちゅう変わんの」
 おー知っとる知っとる、頭にくると人じゃなく物にあたるけんな。あれで酷い負けず嫌いじゃけえ可愛いもんじゃー。
「…っておい、そら今日戻しのゲラじゃ。何ちんたらやっとる。はよ寄越せ」
「あ、そうだっけ。ごめん!終わんないや!月曜じゃだめ?」
「だーめ」
「じゃ明日出てきて仕上げるから取りに来てよ」
 …こいつはいっぺん締めんといかんの。
 坂本はぐしゃぐしゃと髪を掻き回し、ネクタイを緩めてどかっと原田の机の上に腰を下ろした。
「おお?」
「原田さんよ。土曜は一般企業は休みなんじゃ。また明日も出ずっぱりじゃ子作りする暇もないが。おまんは儂の新婚家庭を崩壊させたいんかえ。おまんの怠慢のせいで人生無茶苦茶にされちゃあたまったもんじゃないきね、正直この場でそのいがぐり頭叩き割りたい気持ちで胸がいっぱいじゃ」
 坂本は、山南がいないので、ちょっと機嫌が悪かった。
 原田は片手にボールペン、片手にポテチを持ったまま硬直した。ただでさえ恋する男に軒並み寛容な原田である。坂本の結婚式には山南と土方と近藤社長が出席した。写真を見せてもらったが、そりゃあもうかわゆい嫁さんだ。坂本もかっこいい旦那さんだ。要するにナイス夫婦だ。ふたりを引き裂くなんてこと、許されない。
 反省すべきは仕事の遅さであってそこではないが、原田は心の底から深く反省した。反省はしたが、それじゃどうしたらいいのかと言われるとさっぱりだ。ヒラたる所以である。原田は飛び上がって携帯を掴んだ。困った時の仏頼みだ。
 いつもならすぐさま応答してくれるはずの仏は、10回コールしてやっと出た。
「山南ちゃん!助けて!」
『…何事です』
 あれ、仏さん不機嫌だな。まっいっかー!
「俺、坂本さんに子作りさせてやりてえんだけど、どうしたらいいのか分かんねえんだよ!」
『はい?』
「あほ!」
 坂本は慌てて携帯をひったくった。
「おう山南さん。近くにいるならちいと戻ってくれんかの。儂も1日の最後におまんの顔見ると安らぐきにわざわざ一等最後に寄っとるん…いや子作りはええんじゃ真面目に答えんでええ、おまんにセックスのやり方なんぞ聞いちょらん」
 屋上にいるからすぐ戻る、と山南の綺麗な声が返った。
 あー安らぐ。おまんは鬼ばっかの業界で唯一の良心じゃ。儂の天使じゃ。
 …いや悪魔じゃ。


 山南と坂本は、前会社からの長きにわたる付き合いだ。転職の時も真っ先に焼鳥屋で報告を受けた。
「やめとけ!」
 坂本は驚いて言った。
「近藤さんは確かにええ人じゃ、どこに出しても評判はええ。けどなあ山南さん、あの会社の雑誌部門牛耳っとるのは土方っちゅーやたら気性の荒いガキんちょじゃ。山南さんとはどうすっ転んでも気が合わん」
「私がやるのは文芸です。土方くんとは部署が違う」
 …土方くん?
 土方は山南より年下じゃったか?仮に年下だったとして、これから勤める職場のナンバー2をいきなり「くん」付けするもんじゃろか。
 ひっかかりはしたが、動転していた坂本の頭からはすぐさまその些細な疑問は流れ去った。
「文芸ておま、おま、おまん言うとる意味分かっ分かっ」
「坂本さん、串振り回すと危ない」
「おまんは今まで儂とやってきた仕事ぜーんぶ無かったことにするがかえ!?」
 カウンターを叩いた拍子に皿が跳ね上がったが、山南は微動だにしなかった。相変わらず珈琲でも飲むみたいにちびちびビールを舐めている。
「…ほーか。ま、おまんの人生じゃけ好きにしたらええわ。さよならじゃの、山南さん」
 それでも山南が何も言わないので、坂本は一瞬この淡々とした男に無茶苦茶に酷いことをしたくなった。一生立ち直れないようなことを。
 何度も一緒に修羅場をくぐった。今の自分がいるのは山南のおかげだ。だが今の山南がいるのも自分のおかげだ。絶対そうだ。なのに山南が自分にしたのはただの「報告」だ。相談じゃない。
 もう許さん。もう頭にきてから腹にきた。
「あーもー儂は知らんきね!好きなだけ苦労すりゃええわい!!」
 椅子を蹴って立ち上がった坂本の手を、山南がやんわりと掴んだ。
「…坂本さんが担当についてくれれば、苦労も苦労じゃないんですけど」
「…………」
 未だかつてこんな身勝手で可愛いこと抜かす小悪魔には会ったことがない。しかもまったく質問に答えとらん。
 しかし坂本は翌日、他の人間がやっていた近藤の会社の担当を、辞表をちらつかせてまでひったくった。

 山南が女だったらと思ったこともないでもない。
 はてこれは恋ではないか?と思ったことも、ないでもない。
 しかしそこで暴挙に出るには坂本は少々人間ができすぎ、かつ山南を知りすぎた。
 山南は淡泊だ。ほとんど冷血だ。誰にでもにこにこ優しいが、それは誰にも関心がないからだ。分かって欲しいとか、分かられたいとかいう欲がないからだ。もし自分以外の誰かに山南が執着するようなことがあったら流石に心穏やかではいられないが、そんなことは山南の性格からいって、ありえない。絶対無い。自分にすらないんだから他の誰にもない。
 だからせめて、味方になる。
 例え山南の周囲が敵だらけになっても、自分だけは味方でいる。

 山南はすぐにてくてくと戻ってきたが、何故か土方も一緒だった。
 坂本に気がつくと、一瞬針を刺すようなガンをくれてから、ペコンと頭を下げて踵を返した。
「おう、土方くん」
「気色悪ぃ呼び方するんじゃねえ」
 …ほおう?
「…ほな、歳?」
 剛速球で飛んできた灰皿は、ひょいと避けた坂本を掠めて山南のパソコンにガンとぶち当たった。
「……土方くん」
「違っ、そこの黒いのが避けるからだ!」
「…一言挨拶をと思うただけじゃ、そうカリカリせんでもええじゃろが白いの。近藤さんと山南さんはようて儂はいかんのか」
「当たり前だ!」
 ふーん?
「…何と呼びゃいいんじゃ」
 土方はぜえぜえ肩で息をしながら「ふつうにひじかたでいい」と言った。
「ん。ひじかた!邪魔してすまんの!」
「呼び捨てかよ!!普通っつったらさんだろさん!ひじかたさん!」
 言ってる途中で土方は、そのへんの部下にまあまあと宥められ引っ張っていかれてしまった。
「ほ〜ん。現場泣かせの鬼にしちゃあ意外と可愛らしい兄ちゃんじゃの」
「…あんまりあの人からかわないでくださいよ」
 怒られた。
「…仲良うて結構なこっちゃ」
「後で八つ当たられるのは私なんです」
 ふーん。…なんかなあ。なんだかなあ。
 山南は、原田からしどろもどろの事情を聞くとすぐ言った。
「月曜の朝イチに現場のポストに直接突っ込めば間に合うでしょう。私が届けますよ」
 部長たる所以だ。
「それは有り難いが山南さん、コレ刷っとる工場は静岡じゃ。まあ平日の早朝なら車飛ばせばすぐじゃが…」
「…車」
 何をかくそう山南は無免許である。貧乏学生の時は金がなく、金ができたら暇がない。
 車を持ってて早朝から動けて、できるだけ運転の穏やかな人…。山南はぽんと手をうった。
 沖田くん。

 18時15分。
 そのころ沖田は玄関にいて「沖田さんには分かりませんよー!」を捨て台詞に走り去った藤堂を、呆気にとられて見送っていた。
「…なんなんだよ」
 せっかくの金曜だし、早く帰ってテレビ見たいし、もうナップザック背負って帰る気満々のところに営業から戻ってきた藤堂と会って、いきなり今後の営業政策についてぶちかまされたものだから「もーヒラなんだからそんなのいちいち考えなくていいじゃん」って言っただけなのに。そんなこと上の偉い人が考えることで、私たちは言われたとおりやってればいいんだよ。時間の無駄だよ。
「…総司」
「うわ!いつからそこにいたんですか、不気味だよ斉藤さん」
「すまん」
 よく言われる、と斉藤はぼそっと言った。
「もーなんなんでしょうね平助。なんかやなことでもあったのかなー」
「…あいつはおまえにコンプレックスがあるんだ」
「こんぷれっくす?」
「努力する奴と、元々才能がある奴の違い」
 沖田は自転車を引き出す手を止めた。
「…どういう意味ですかそれ。私が努力してないって言いたいんですか」
「…そうは言ってない」
「言ってるよ。そりゃ私は平助ほど仕事熱心じゃないですよ。出世にも興味ないし、そういう意味じゃ努力なんか全然まったくしてないよ。でも何だか適当に広告とれちゃうんだから、元々向いてるんだ。それが才能だとしても、そんなの私が八つ当たられる理由にならないよ」
「…それはそうだが、藤堂の努力を無下にするようなことを言うのは…」
 ガシャンと音を立てて沖田がスタンドを蹴った。
「あーあ!斉藤さんに言われたくないよなー!斉藤さんはどうなの。努力も才能もないじゃない。私が知らないと思ってるかもしれないけど、近藤さんの機嫌とりでもってる不良会社員じゃない。だいたい私は斉藤さんの部下でもなんでもないんだから説教される覚えはないよ」
 沖田は自転車に飛び乗って、あっという間に角を曲がって見えなくなった。
 しばらくとっぷり日が暮れた玄関に立ち尽くした後、斉藤は鞄を抱え直し、2、3歩歩いて立ち止まり、ゴンと電柱に額をぶつけた。
 …俺はどうしてこう身の程もわきまえず余計なことばかり言ってしまうんだ。
 悪気なんかまったくないのに、仲良くして欲しいなあと思っただけなのに、結局藤堂にも沖田にも悪いことをしてしまった。今日は土方さんも落ち込ませたし会議で寝てて新見さんにも怒られたし。あ、それはいつものことか。土方さんと山南さんだっていつもギシギシしてるから仲良くして欲しくて、土方さんとこ行って山南さん誉めたら怒るし、山南さんとこ行って土方さん誉めたらにっこり笑って「知ってます」って言うし、でも知らないから嫌いなんだろう。違うのか。
 …俺は金輪際他人のことに関心を持たないようにしよう。きっとそれが世の中のためだ。

「斉藤くん。何してるんです」

 わー山南さんだー!実は総司怒らせちゃって落ち込んでるんだ何とかしてー…て言いたい…。
「いや別に」
「気分でも悪いんですか?」
 あー山南さんに背中をさすられてしまったー!大丈夫ですありがとう優しいんですねー…て言いたい…。
「俺のことはいいから構うな」
「…でも」
 ぎゃー山南さんがしょんぼりしたー!どうして俺は身の程もわきまえずクールに振る舞ってしまうんだ。
「…実は沖田くん探してるんですけど、もう帰っちゃったのかな。会いませんでした?」
「会ってない!!!」
 しみじみと斉藤の顔を眺めた山南は、突然携帯を引っ張り出した。
「沖田くん?山南です」
 わー!
『あーちょっと待ってくださいね、自転車寄せますからー。…はい、いいですよ〜』
 山南は斉藤をちょいちょいと指で呼び、いつもとまったく変わらない沖田の声が斉藤にも聞こえるよう携帯を傾けた。
『車?いいですよ、月曜は私も営業ついでに車出そうと思ってたから。朝、山南さんちまで迎えに行きます』
「よかった、恩にきます。沖田くんの運転なら安心だ」
『朝ご飯一緒に食べましょうねー』
「そうだねー富士山見えるといいねー。ところで斉藤くんと喧嘩した?」
 斉藤が横でげぼっと妙な声を出した。
『ちょっと言い合っただけで喧嘩ってほどのことじゃないですよ。もしかしてまた落ち込んでるんですか?やだなーもー斉藤さーん!さっきはごめんね!私もちょっと大人気なかったよ!今度パチンコ教えてね!スパイも大事な仕事だよ!じゃあ山南さん、また月曜日!』
 切れた。
「斉藤くん、何があったか知らないけど沖田くんは根にもつような子じゃないから、気にしなくて大丈夫ですよ」
 …も、もう少し根にもってくれたって。
 っていうかあいつ今スパイって言わなかったか。言ったな。
「山南さんあれは誤解だ!俺はそんな間諜みたいなことは」
「私は他人のことには関心がないんです」
 山南はパチンと携帯を閉じた。
 そしてふんわり笑った。
「おやすみなさい、斉藤くん。いい週末を」

 嘘。

 斉藤は鞄を抱きしめたまま、ロビーに消えた山南の後ろ姿を見送った。
 山南は、確かにあまり、誰にも関心がなさそうに見える。その証拠に自分にも総司にも永倉さんにも原田さんにも新見さんや芹沢さんみたいな難物にも、まったく同じに優しい。誰にでも同じように穏やかなのは、関心がないからだ。距離をとるからだ。
 でもじゃあなんで土方さんには優しくしない。
 
 



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