ACT.2

 

 午後2時。
 近藤社長はいつも、5分遅れて一番最後に会議室に入る。
 本当はそんなことはしたくないのだ。生真面目な近藤は時間に正確に動くことをモットーとしている。どれだけ眠かろうが意識がなかろうが、起床時刻になれば体は自動的に布団から起き上がり顔を洗い身支度を整えて玄関から勝手に出ていく。したがって体は会社に着いても、まだ寝ていることもある。そういう時は正面玄関の掃き掃除をしている井上や、週の半分は会社に泊まる土方やなんかが、斜めに傾いだまま歩く近藤を見つけて駆け寄り「おはよう」を言うついでに一発殴ってくれて、ようやく本格的に目が覚めるのである。
 今朝は目を覚ました時に目の前にいたのは原田だった。道理でいつもより痛い。
「おっはよう近藤さん」
「左之助じゃないか!」
「そうだよ」
「そうだよじゃない、なんでおまえが俺を殴…」
 そこまで言って、近藤ははっと口を噤んだ。
「…いや、なんでもない。おはよう」
「いつ見ても眠そうだなあ近藤さんは。そろそろ電車やめてハイヤー通勤でもしねえと、そのうちホームから落ちるよ?」
 原田はひらひら手を振って見送ったが、近藤がエレベーターの中に消えてから、小さく舌を鳴らした。
 この会社は近藤の親の経営会社から分派したが、その元会社から近藤が連れてきた社員と、後から入れた社員の間に、なんとなく差別があるような気がする。源さんや土方さん、総司なんかには許されて、自分や永倉や山南さんには許されないことがある。まあ普通は社長にビンタ喰らわすようなことは誰であろうと許されちゃいけないのだが、原田は「誰にでも平等に接する」という、普通の人間には難しいようなことが簡単にできてしまう男だったので、ちょっと不満だ。
「…ま、いいんだけどね」
 この会社も近藤のことも気に入っていたし、毎日楽しいから、別にそんなのは構わない。自分の給与明細もきちんと見ないような男なので、仮に給与に明確に差があっても気にしないと思う。でももし、そのせいで誰か自分の気に入ってる人が悩むようなことがあったら、その時は、分からない。
 
 話はそれたが近藤は5分遅れて会議室に入る。
 土方がそうしろと言ったのだ。
「社長たるもの会議開始より早く入って部下が揃うのを大人しく待つなんて威厳のないことをするな!」
 部下である土方に命令されて大人しくそのとおりにしているほうが余程威厳がないのだが、近藤はそんなもんかなと素直にきいている。
 土方は特別だから。
 家が近所で、幼稚園、小学校、中学校と一緒だった。勉強も運動もできて顔もよくて足も長くておしゃれでバンドやってて歌って踊れてマジックもできて女の子にモテモテのスーパースターだ。自分が近づくと土方が他の奴をほっといて自分の元へ駆け寄ってくれるのを、近藤はいつもぽやんと眺めていた。ああ歳はかっこいいなーこんな奴がなんでかっちゃんかっちゃん構ってくれるのかなー芸能界デビューとかしたらいいのになーそしたら俺ファンクラブの会長になるんだーでもそしたらみんな歳のこと好きになっちゃって嫌だな、歳がストーカーに付きまとわれたりファンに銃撃されたりしたら困るな。近藤は大まじめにそんなことを考えた。憧れの人。まさにそれだ。初恋。近かった。
 ふたりの人生が分かれたのは高校の時だ。理由は単純で、親元を離れて下宿したいという希望で土方が遠く離れた名門進学校に進んだからだ。近藤は泣いた。土方は泣かなかった。また会えるよと近藤の頭をよしよし撫でた。俺はかっちゃんが羨ましい、頑張って勉強とか運動とかできたって、人に嫌われたらどうしようもねえんだ、かっちゃんは人に好かれる才能があるんだ。歳だってあるよ、と近藤は吃驚して言った。歳だって人気者だよ。そう言いながら、でも土方には味方も多いが敵も多いことを知っていた。でもそれは歳があまりにもかっこいいからだ(しかも自分でかっこいいって言うからだ)。俺はあんまり優しくないんだ、自分が一番好きだから、でもかっちゃんのことは自分より好きだ、だから優しくできる、でも他の奴にはできないんだ。土方は何だかよく分からないことを言った。近藤は泣いていたので、あんまり聞いていなかった。
 じゃあな、親友。
 土方はかっこよく手を振って行ってしまった。余談だが別れ際に近藤のファーストキスを奪って行った。
 土方は電話も手紙も寄越さなかった(携帯なんてこじゃれたものはまだ普及していなかった)。ただの一度も帰省しなかった。近藤は耐えた。初恋はそんなものだと知っていた。
 7年後、土方は同僚になって現れた。
 よお、親友。
 そう言った。

 今も歳は昔と変わらずかっこいい。カリスマオーラは健在で、業界では超のつく有名人だ。時々テレビでコメントするから、ただの編集者なのにファンがいる。そのへんの俳優なんかより全然光ってる。部下も怖がったり恐れたりしながら、それでも歳を尊敬してる。誰よりも頑張る歳のことを。口は悪くても全力で部下を守ってくれる歳のことを。今でも近藤のヒーローは土方だ。憧れだ。大好きだ。笑うと可愛い。本当は優しい。
 でも完璧じゃない。それが大人になってようやく見えた。頑固で融通がきかないし、変なところで不器用だ。でも、そこが好きだ。
 土方は自分に厳しくて人にも厳しい。反して近藤は自分に甘く人にも甘い。
 …もっとこう、自分に厳しく人には甘い、という人はいないもんかな。
 そんなことを考えて、面接であの人を採ったのだ。
 山南敬助。
 よその出版社で、山南はなんと雑誌編集をやっていた。雑誌畑の人間が、面接にやってきて突然文芸がやりたいと言うのは相当変わったことだ。近藤は確かにこれから文芸に力を入れたいと思っていたが、編集者にとって財産を捨てて一からやり直すのは余程の努力が必要だ。給料も前の会社より落ちる。でも山南はそんなのまったく構わないと言った。どんな質問にも間髪いれず答えて、そうしながら好感度は抜群に高かった。一次面接で採用を決めた。
 山南はいつも穏やかで冷静だ。滅多なことでは怒らないし、寛大で面倒見がいいから部下からも作家からも印刷所の営業さんからも愛された。入社1年でさっさと部長になったが、もう十何年もそこに座ってるように山南はそこにいる。よくできた人だなあ、と近藤は思う。地味だけど綺麗な顔だし声もいいな、と思う。これじゃまるで完璧だ、と思う。こういう人が社長になるべきじゃないか?とも思う。でも近藤は、今でも憶えていることがある。
 いつかの忘年会で、近藤は山南の向かいにいた。山南は酔うと、顔も声もそのままでつらつらと毒舌を吐く。ミュージシャンの話になって、昔スターだった人が老いた姿見ると寂しいね、という話をしていた。山南は笑顔のまま「死ねばいいのに」と言った。「明日は晴れればいいのに」と同じ調子だ。
「伝説になる条件はさっさと死ぬことですよ。俳優でもアーティストでも作家でもなんでも、憧れの人が落ちぶれるのを見たくないから、私はあんまり好きになりすぎるとこの人早く死ねばいいのにと思います。普通の人でもね、長生きを願われる人なんて滅多にいないんじゃないかな。私も惜しんでくれる人がいるうちに逝きたいですよ」
 …怖。
 近藤は山南に、今まで以上に丁重にビールを注いだ。
 確かに山南さんは自分に厳しく人には優しい。でも、そんなによくできた人がいるものかな。
 土方に、ぽろっと漏らした覚えがある。もう何年も前のことで、記憶は朧気だ。
 確か、土方はいねえよと言った。馬鹿にするでもなく、真剣に。

 近藤さん。そんな奴はいねえよ。絶対にいねえんだよ。
 



「…芹沢さんがいないな」
 近藤は会議室を見渡した。芹沢がいればいなくてもいいはずの沖田と永倉が並んで出席している。
「体調不良につき欠席だ。私が委任状を預かっている」
 司会進行を勤める総務部長の新見が、紙片を指でつまんで振ってみせた。
「…先週も体調不良ではありませんでしたか?」
「先々週も先々々週も先々々々週もそうだ。会議の日には体調不良になるという病気なのだ。まずは気にするな」
「しますよ。だいたい新見さん、その委任状いつ預かったんです」
「先月だ。1年分もらってる」
 新見は司法試験に在学中に一発合格した秀才で、仕事も人の三倍速でこなすが、にこりともせず何考えてるのかよく分からないので不気味がられている。だいたい司法試験に受かって総務している時点で充分何考えてるのか分からない。ある時、どう考えてもおかしい休暇申請書を一瞥してあっさり判をついたので、井上が抗議したことがあった。新見は無表情にこう言った。
「悪いことはできないんだよ井上さん。因果応報って言ってね、どんな小狡い真似したっていつか必ずまとめて自分に返ってくる。そのいつかを楽しみに騙されてやるのは私の趣味だ。文句があるならクビにしたらいい」
 なんか凄く怖いのでもうあの人には何も言いません、と井上は言った。
「…いーじゃねえか、酒くせえのがいなくて。さっさとやろうぜ近藤さん」
 土方がコンコン机を叩いたので、近藤は渋々席についた。
「それでは役員会議を始める。まずは各部署の収支決算」
 四角に組まれた机の席順は、正面に近藤と司会の新見がくる以外は特に決まっていないが、右手手前に山南、左手手前に土方は、常に同じだ。いつも、対面に座る。売り上げはいつもどおり、土方が編集長と発行人を兼ねるメンズファッション誌と成年誌、いわゆるエロ本は既に業界トップだ。もっとも毎週激しく順位が入れ替わるから油断はできない。上がり下がりの激しい土方の部署に比べて山南のほうは、ここ1年まったく同じだ。そこそこ売り上げそこそこ儲ける。常に安定したグラフを描くので営業も楽だ。
「では各部署から報告を」
 井上が立ち上がった。
「えー皆さんもうご利用になってるかと思いますが、自販機を増やしました。要望の多かったポッカの自販機が1階右手。煙草は2階です。それから下の駐輪場ですが皆さんマナーが非常に悪い。敷地をはみだして止めてあるので隣のビルから苦情が出ております。自転車およびバイク通勤の方、申し訳ありませんが挙手をお願いします」
 土方と沖田、新見の手があがった。井上も自分で手を挙げた。
「そのうち1人2台以上停めている方」
 土方以外の3人が、ぱたんと手を下ろした。
「あれ?」
「土方さん、困ります。駐輪場の使用は1人1台と決まっている」
「自転車とバイクと両方ねえと俺も困るんだよ。その日によって気分ってもんがあるだろ。るんるん気分の時は自転車に乗りてえし、いらいら気分の時はバイクでとばしてえし」
「…ずっとるんるん気分でいればいいじゃないですか」
 山南が書類に目を落としたままぽつんと言った。
「…俺をいらいらさせてる張本人に言われたくねえよなあ」
「るんるんさせる張本人も大概私だと思いますけど」
 妙な沈黙が流れた。沖田は俯いて笑いを耐えた。
「土方くんも沿線は半蔵門でしょう。地下鉄は快適ですよ。いらいらしながらバイクに乗って、また事故ったら大変だ」
「また?」
 近藤は驚いて土方を見た。
「またってなんだ?聞いてないぞ。歳、おまえ、いつ事故った?」
「…分かった!明日からバイク1本にする。それでいいんだな源さん」
 沖田は隣の永倉の膝をつついた。
「ね、永倉さんって何で通ってるの?」
「無論徒歩だ。健康のためにな」
「…家、どこだっけ?」
「杉並だ。歩いても95分はかからん」
 95から60ひくと35だから1時間35分。えー。
「…もしかして原田さんも?」
「あいつは確かマクロブレードマクスムだな」
「…ナニそれ」
「ローラーブレードだ」
「そこ。静かに」
 沖田が「ローラーブレードに乗る原田」を思い浮かべる前に、新見が教師のような口調で遮った。
「では編集二部」
 終始俯いていた山南が初めて顔を上げ、真正面の土方に向かって言った。

「阿部栞と公手俊弥が離婚しました」

 一瞬間があって、会議室が絶叫で揺れた。
 4年前に電撃入籍し世間を騒がせた人気絶頂の俳優同士だ。どちらもまだ20代、不仲説など噂にものぼっていない。
 土方の手からボールペンが落ちて床に転がった。ちなみに土方は阿部栞の大ファンで高校時代に公開録画に渋谷公会堂まで出向いたほどだが、今はそれはさておく。近藤は目をキラキラさせて身を乗り出した。
「本当ですか山南さん。信じられないな、いったいどこからの情報です」
「正確には言えませんが公手の事務所の人物です。正式なマスコミ発表は公手のCM契約が切れる1ヶ月半後。それまでにうちから阿部に手記を書かせます。先日契約書も揃いました。阿部にはアーティスト時代のコアなファンも多いしモデル経験もある。映画中心で露出も少ない。フォト多めであくまでスマートに女性向けに、ただし発売はCM兼ねて離婚発表にぶつけます。斉藤くんに見積もってもらいましたが初版はしぼって20万」
「20万?もっといくでしょう!」
「もっといきます。あえて品切れさせます。テレビ局、事務所、うちでの連動です。バラエティー出演が多い公手には痛手でしょうが阿部は乗り気です。子供がいないので主婦を敵にまわすこともないでしょうし新しい女性の生き方として受け入れられるはずです」
 きったねえ…!売れるわそりゃ!俺も読みたいわ。なんだそれは。なんだその大スクープは。よりによって週刊誌を抱えたうちが身内に抜かれるなんて。
 土方は動揺を隠すために身を屈めて床からペンを拾い上げた。
「…そりゃ凄いが、離婚原因によるんじゃねえのかな山南さん。性格の不一致じゃ、いまいちウリになんねえぞ」
 山南は微笑んだ。
「勿論異性関係です。阿部のほうの。しかしあくまで公手を悪者に。そのあたりはお任せください、最高のゴーストを用意しました」
 これで営業も宣伝もしばらく山南のこれに持っていかれる。タレント本は足が早いから純利も高い。
 再来月には確実に、二部に抜かれる。



 18時。
 土方は、屋上の手摺りに凭れて煙草をふかしていた。秋もふかまって夜風が冷たい。
 遙か下を、定時であがったサラリーマンが駅のほうへ流れていく。
 …今日は金曜だから、あいつらの半分は呑んで帰るんだろーな。終電はゲロまみれで大変だろーな。俺も今夜ぐらいは早く帰りてえな。明日も出社しなきゃ校了間に合わねえし。
 会議室を出た途端、山南が耳元で囁いた。
 これから会いますけど、阿部栞のサインもらってあげましょうか?
「…土方さん」
「何だよ」
 振り向かなくてもこの平坦な声は斉藤だ。
「苦悩中に追い打ちをかけるようだが」
「…やめてくれよもー」
 斉藤が、申し訳なさそうにしゅんと俯いた。
「…コンビニが雑誌点数を減らすと言ってきた」
「何!?」
「リターン30%以上の本は軒並みカットだ。雑誌でもってる出版社はどこも頭抱えてる。うちも4誌がカット候補だ」
「冗談じゃねえ、書店卸しはたったの2割だ、8割方コンビニにまいてんだぞ!?コンビニ搬入打ち切られたら即廃刊だ!」
「…すまない」
 斉藤はまったく悪くない。コンビニの棚取りは戦争だ。悪くもないのにあやまられるとますます腹が立つ。
「おまえ会議に出てたな。なんで会議の場で言わなかった」
「…山南さんがいたから…」
「なんで山南がいたら言えねえんだ!」
「だって」
「だってじゃない!」
 ああそうだ山南の前で言われなくて助かった。ただの八つ当たりだ。斉藤は「俺のせいだ」と呟いた。
「…おまえのせいじゃねえから、そういうこと言うな。しょうがねえよ、廃刊になったらなったで俺もちょっとはまともに眠れる。頑張りすぎた」
「まだ決まった訳じゃない、月末までに返品率下げればまだ」
 …もしくは他社の返品率を上げるかだな。
 今までさんざん汚い手でライバル会社の雑誌をつぶしてきた。直でモデルつぶしもやったし間接的に悪評たてたこともあったしスタッフを根こそぎ金で盗んだこともあった。またやるか。やろうと思えばやれる。でも今日は考えたくねえな。疲れた。
 斉藤がしゅんとしたまま階段を降りていったのを確かめて、土方はコンクリートの上に寝っ転がった。
 …疲れた、な。

 山南さん。疲れた。

「…どこででも眠れるんですね君は」
「…どこにでも現れるなあんたは」
 いつもいつも現れるんだ、あんたは。
 仰向けに寝ころんだ土方の、頭の上のほうに立った山南は、土方にはシルエットでしか見えないが、靴の先がコンと頭を突いた。
「…離婚発表、土方くんとこの週刊誌の発売曜日にあわせるよう頼んできましたよ。どうぞ、すっぱ抜いてください」
「…優しかったり冷たかったりすんなよ。敵からの塩なんかうけねえよ」
「敵ですか」
 山南はちょっと微笑った。ような気がした。見えないが。
「…敵だ」
「いつまで」
「…ずっと」
「土方くん。ずっとはない。この世にずっとなんてない」

 斉藤がいなくてよかった。こんなことかっちゃんに知られちゃいけない。俺はあいつのヒーローなんだから。
 山南の指が2秒後に俺の髪に触れる。

 そしたら俺は、少し、泣く。
 
 
 
 


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