ACT.1
午前10時半。
ギリギリで電車に飛び乗って息がきれていたから、気がつくまでに時間がかかった。
しばらく延々果てがなく続く車内吊りを見上げていた山南は、ようやく思い出して携帯の電源を切った。
…やるなあ、土方くん。
仮眠室から溢れた連中が床だの会議室だので爆睡している様は、それこそ爆弾でも落っこちたようだ。
24時間フル稼動で昼も夜もない編集部では珍しくもないが、最近のこれはちょっと度を超している。一応会社なんだから来客がないでもないし、土方くんももう少し巧くやれないものか。このぶんじゃ誰がいつ過労死しても不思議じゃない。何人かは会社に住んでるに違いない。転がった人と人との間をぬって(考え事をしながらだったので時々失敗して踏んづけたが)フロアを進み、山南はようやく一番奥の宣伝部に到達した。
「永倉くーん。今いいですか」
「構いませんよ。おはようございます山南さん。早いですね」
編集部以外の人間は、当たり前だがきちんとスーツを着て朝9時から立ち働いているので、顔もすっきりし声も朗々と清々しい。
「…別に早くはないんですけどね。昼だし」
「いやいや午前中にきちんと出勤されるだけでも素晴らしい。ご覧なさい、1部は昨日の修羅場で皆殺しだ。それに比べて2部の連中は健康を気遣ってくださる上司に恵まれて実に幸せです」
「…いえいえ」
「私は思うのだが、人は太陽と共に起き活動するのが本来の姿ではないだろうか。昼も夜もない不健康な生活が何やら格好がいいかのような風潮は感心しませんな。やはりスーパーフレックス制は廃止すべきだ。もっとも土方さんがそれでは仕事が回らないと文句を言うのだが、実際に山南さんは徹夜もなく仕事をこなしてらっしゃる。そもそも土方」
「永倉くん、その話はまた次の機会に」
こんなところで土方への批判をはきはきと口に出さないで欲しい。出すのは構わないが、自分の前で出されてはとばっちりがくる。
「は。私に何か?」
「今朝、全車両貸し切り広告を見たんですが。明日土方くんところが創刊する情報誌の。あれは半蔵門線だけなんでしょうか」
「勿論そうです。全路線カバーしたら倒産する」
「何故半蔵門線なんです」
永倉は、ばちんと音が立ちそうなほど大きな瞳で瞬きした。
「…何故とは?」
「おかしいでしょう。うちが車内吊りをうつ時は都営か丸の内線が通例です。半蔵門なんて初めてだ」
「そうなんです」
「そうでしょう」
「そうなんですが、どうしても半蔵門線で派手にぶちかましたいと土方さんが勝手を言うものですから。だいたい土方」
「お手間をとらせました」
まだ永倉が喋っていたが、山南はくるりと踵を返した。
山南の仕切る編集2部は、主に文芸書を担当する。作家と担当編集との一対一の個人戦が主なので、修羅場といっても静かなものだ。そう大きく予定がずれ込むこともない。少数精鋭でストレスも少ない。会社に泊まり込むのも月にせいぜい二、三日程度。
一方1部はエロ雑誌からファッション誌から情報誌から大所帯が入り乱れての団体戦。全員の仕事が終わるまで修羅場が続き、校了は連帯責任なので、常に雰囲気は殺気立ち、仕切る土方は四六時中怒鳴り散らしている。ガンガン物が飛び罵声が飛び頻繁に人が逃亡し、昼も夜もない大騒ぎだ。
2階の宣伝部から脱出して3階の、自分のデスクに行き着くまでには編集1部を経由する。ここも死体が転がって凄い有り様だ。次々に跨ぎながらようやく席に腰を下ろしたところで、傍らの会議室の戸が轟音を立てて開いた。
「……………おはよう」
いた。
「………おはようございます土方くん。泊まりですか」
土方は埃で真っ白になった、多分元の色は黒と思われる服をパンパンと払った。寝不足で真っ赤になった目といい乱れまくった髪といい、子供が見たら泣きそうだ。
「朝っぱらからお肌ツヤツヤだなぁ山南さん。ゆうべはよく眠れたかい」
「…八つ当たりしないでくださいよ。男前が台無しだ」
「言いたいことはそれだけか」
明らかに、自分に何か言いにわざわざ起きてきたのだ。
いつまでもそこで睨まれていると仕事にならないので、山南は仕方なく「見ましたよ」と言った。
「凄ぇだろ?ん?張り込んだぜ宣伝費。うちはバンバン稼いでるからよ。どっかと違って」
「…やっぱり、わざわざ私が乗る路線狙ったんですか」
「どーしてもあんたに最初に見せてやりたかったもんでね」
「それはどうも。明日からタクシーで来ますよ」
それで気がすんだかと思えばまだ足りないらしい。
「新聞は読んだか」
そういえば今朝は寝坊して、朝刊は鞄に突っ込んだままだ。
「…まだですが、まさか」
「見ろ!読め!25面だ!俺は朝日に広告うちたかったのにあんたが毎日新聞だっつーからわざわざ伝手を辿って」
「…先月から読売にかえました」
笑いを堪えるのに失敗した。
午後1時。ようやく起き出した1部と出勤してきた2部が動き出し、会社らしい風景になる。
独自のタイムスケジュールで動く3階編集部はさておき、他の部署はきちんとお昼休みだ。
「沖田さーん、今日お弁当ですか社食ですか外ですか」
「お弁当ー」
「じゃブースで一緒に食べましょうよ」
広告部の沖田と営業部の藤堂は仲よしだ。おかずの交換をしたりおやつを分け合ったりときゃっきゃする姿は激務に疲れた心を激しく癒すものだから、「打ち合わせブースで飲食は禁止だよ」と言いにきた井上は、思わず見逃すことにした。
「あ、源さん。珈琲美味しくなってるよね。いつもと味違わない?」
「ああそうなんです。先週から業者を替えてみました」
「美味しい美味しい」
「それはよかった。自販機も一台増やしたから。平助の好きなアップルティーも入ったよ」
「わあ、本当ですか、嬉しいなあ〜!」
井上は思わず袖で涙を拭いた。ああ、なんていい子たちなんだ。
土方さんなんか珈琲を切らしたら烈火の如く怒るくせにがぶ飲みで味なんか分かっちゃいないし、山南さんは味にうるさいわりに砂糖入れまくりで豆なんかもう関係ないし、武田さん備品くすねて持って帰るし、永倉さん勢いあまってコピー機割るし、斉藤くん暇つぶしにカッターで机削るし、原田さん引き出しの中で食べ物腐らせるし、近藤社長は何度教えても外線と内線の取り方間違えるし、業務なんて地味な仕事をここまで大切に味わってくれるなんてこの子たちぐらいですよ。井上源三郎、この子たちが気持ちよくお仕事するために力を尽くします!
「薄い!」
後ろから恫喝がきた。
「…なんですか土方さん」
「珈琲薄い!こんなんで目ぇ覚めるか!」
「ご自分でお入れになったら如何です!」
「ああ!?何だ、口答えか、俺は今日機嫌が悪いぞ、こら、源さん、稼ぎ頭をないがしろにするのか!」
どかどか去ってしまったふたりをよそに、沖田は藤堂に視線を戻した。
「でも珍しいね、平助がお昼時に会社にいるの。いっつも営業飛び回ってるじゃない」
「今日は夕方からです。…ってやだな沖田さん、2時から役員会議じゃないですか」
「…平助はヒラだから関係ないでしょ」
「役員会議で重大発表があったら間髪いれず仕入れなきゃいけませんからね」
「…へー。平助は凄いな。仕事熱心だし情報も早いし。きっと出世もすぐだね」
「いえ、そんな」
藤堂は俯いて珈琲を啜った。
…沖田さんには、負けませんから。
いい天気だ。
斉藤は、屋上にいた。というか大抵屋上にいる。
階段を上がってその上の給水塔の辺りまでよじ登って寝ころんでいるので、誰かが探しにきてもまず見つからない。
屋上というのは不思議なところで、会社の人間模様が中にいるよりよく見えちゃったりする。その見えちゃった模様を社長に密告しているので、こんなサボリ魔でも会社員が勤まっているのだ。
斉藤がさぼればさぼるだけ、同じ部署の藤堂の仕事が増えるのだが、何故か藤堂は一切文句を言わない。どころか自分の割り当ての仕事を勝手にひったくったりする。きっと仕事が大好きなのだ。好きな奴が好きなことをすればいい。
と、屋上に通じる扉が重い音を立てて開いた。
斉藤は匍匐前進してそっと上から覗いた。
永倉と原田。
あのふたり、部署は違うが同期なので非常に仲がよろしい。たまにいちゃいちゃしてたりする。たまにこっそり昼間っからアルコール入れてたりする。勿論全部社長に報告している。話題は大概土方の悪口だ。原田は山南の部下だし、永倉も山南の部署の仕事が多いから、山南に攻撃的な土方に反発があるんだろう。でも。
斉藤は、ひとりで深く頷く。
俺は土方さんが好きだし山南さんも好きだ。土方さんはかっこいい服着せて写真撮ってくれるし(モデル料を浮かせてるだけで、時々精力剤の愛用者コメントに顔写真が使い回されていることを斉藤は知らない)山南さんは珍しいものを色々くれる(地方のペナントとかこけしとかパッチワークのドアノブカバーとか。明らかにゴミ箱代わりだが斉藤は知らない)。ふたりとも、とても親切だ。
「実はさあ〜おまさちゃんのことで相談があんのよ」
おまさちゃん?
斉藤は頭の中で社員名簿をひっくり返した。
「ああ、社食のバイトの子か。あの子は可愛いな、いい子だと思うぞ」
「そうでしょ〜そうでしょ〜ど〜したらいいかな〜ど〜したらいい〜?社食行くたび勃っちゃってメシが食いにくいのよ」
「食堂で勃てるな!」
「だって勃つんだもん」
斉藤は、これは社長に報告すべき事柄かどうか2秒考えて、やめた。社員同士ならともかくバイトなら関係ない。
「早くなんとかしないと土方さんが食っちゃうんじゃないかと思うと気が気じゃねーよー」
「あの人は女と見たら軒並みだからな。ここだけの話、先月辞めた経理の女の子、弄ばれて捨てられたって噂だ」
「どーしよー!あ、でも土方さん社食であんまメシ食わないもんね。平気かなぁ」
斉藤はごろんと寝返りをうった。
…これは報告しとこう。副長の女癖が悪いのは、会社にとってよくない事だ。
土方は、陰で「副長」と呼ばれている。
「副社長」が縮まったのだ。
この会社に「副社長」という役職はないが、代表取締役の近藤と幼なじみであることから実質ナンバー2であろうという周囲の憶測による。
「副長はなんで山南さんにつっかかるんですかね」
出張費の精算に来た山南に、経理の河合が素朴な疑問を発した。
「河合くんは背が高くて羨ましいなあ」
山南は全然関係ない返事をして、ここ、と指で指された箇所にとぽんと判子を押し達筆で署名した。
「何食べたらそんなに背が伸びるんですか?」
「…山南さんはもう伸びないと思います。それより、ねえ、部署は一部と二部だから双璧みたいになってるけど、文芸と雑誌って全然別のことでしょ?何も張り合うことないのにな。山南さんもきつくないですか?あの人、何かっていうと怒鳴るんだもん。私、飛び上がっちゃいますよ」
「お互い様ですから」
「え?」
「それじゃ河合くん、よろしくお願いしますね」
山南は経理部を出て、自分の肩をぽんぽん叩きながら階段を上った。
社内では土方が一方的に山南に対抗意識を燃やしているように見えるらしい。
…今に目にもの見せてくれますよ。
今朝の車両広告を見た瞬間から音を立てて燃えさかっている山南の闘争心に、周囲の誰も気付かない。
何が車内吊りだ。新聞広告だ。こっちはテレビCMうってやる。
何が何でも土方には負けない。負けるわけにいかない。
役員会議まであと15分。
「…手加減しませんよ、土方くん」
山南は指の骨をパキンと鳴らし、たまたま階段を降りてきた永倉・原田が思わず飛びずさった。
山南と土方の確執の本当の原因は、まだ社長も、斉藤も、知らない。
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