坂本はすっかり臍を曲げてしまって、黙りこくったまま勝手に手酌で流し込んでいる。 それでも確かに半刻前はそれはそれは嬉しそうに笑顔で迎えてくれたので、山南は半刻前の思い出に縋って向かいに座り続けていた。幸い界隈は子供や物売りの声で騒がしく、沈黙が痛いということはない。 あてがはずれたな、と正直に思った。何時如何なる時にもこの人は陽気で饒舌で、手っ取り早く気分を引っ張り上げてくれたから、今日もさっさとそうしてもらおうと思っていた。鬱の坂本なんて剣のない沖田みたいなものではないか。甘くないぜんざいみたいなものではないか。土方のいない新選組みたいなものではないか。自分で例えて意味が分からないが特に最後。 山南は酔いで崩れかけた正座を正した。 「坂本さんには懇意の女性はいらっしゃるんですか」 一瞬不意をつかれて視線を上げた坂本だが、またすぐ器に落とした。 聞いてくれてることが分かればそれでいい。 「見合いで夫婦になる方と、出会って恋仲になって紆余曲折あってようやく結ばれる夫婦とがいるでしょう。どちらがどうとも思ったことはなかったんですが、今の坂本さんを見ていたら後者のほうがいいのかなと思って」 そのまま漬け物を突いていたら、焦れた相手がようやっと口をきいた。 「…儂と恋仲と何の関係があるんじゃ」 「思い出に縋れるということです」 「…?」 「私は貴方を随分昔から知っているから、貴方がそうしてふて腐れていてもそうそう諦めない」 「…ふて腐れちょらん」 「初めて会った時に頭に葉っぱがついてたこととか、私の擦り傷をいきなり舐めたこととか、道場の皆で花を見に行った折に雨に降られて羽織を貸してくれて翌日ひとりで大風邪ひいたこととか、腹踊りを」 「恥の羅列じゃ」 「じゃあ私は貴方の恥が好きなんです」 坂本の箸に挟まれた壬生菜が、きゅっと音を立てた。 「ですからね。今後坂本さんを憎みそうになる一瞬があっても、あの時はこんなだったとか、笑ったらこんな顔だとか思い出せるでしょう。思い出して思い留まれるでしょう。だから」 それはそれとして先刻汁粉7杯食い上げた女性に瞬く間に一目惚れしてきたばかりなのだったが、まあおいておく。 「ほうか」 「そうです」 「ほしたら今のうちにもちっと格好のいい思い出を作らんといかんの」 「…今のうち?京を離れるんですか?」 坂本はようやく、ちょっと笑った。 「おまん死相がでちょる」 「おや。気付かなかった」 「案外鏡にも顔が映らんのじゃないか。迷うとる時にゃあ影が薄うなるんじゃ」 迷う。 もぞもぞ姿勢を正した坂本は、ふっと顔を引き締めた。いつもの坂本だ。でかいことを言う前の顔だ。 「あの世もこの世も同じぜよ山南さん!」 「…また貴方は。見てきたようなことを」 「見てこんでも分かろうが。儂があっち行ったからゆうて儂がおまんになる訳がないきね。日本におろうが海へでようがくたばろうが儂は儂、山南さんも山南さんぜよ。自分がそのまんまなんじゃきやる事も話す事も考えることもそうそう変わらん。ほしたら寄ってくる顔ぶれも変わらん。おんなじぜよ山南さん。新選組総長じゃろうがはぐれ浪士じゃろうが関係ないちゃあ。のう」 知らない間に頬が緩んだ。全部お見通しだ。 どこに行こうか。明日からどこに。 「ええこと言うたか?」 「ええ」 「腹踊りは忘れろ」 山南は微笑んで首を傾げ、ゆっくり横に振った。 「それは無理」 思い出に縋れる、なあ。 坂本は随分長い間、山南が屯所へ戻っていくのを窓から見送っていた。 途中で大真面目に水面を覗き込んだりしている。 …嘘じゃ嘘。映っとる。 まだ生きちゅう。 坂本さん。 山南はたった今目の前で閉まった障子を見詰めた。土方が閉めた障子を。 私は貴方にはなれなかった。どこにも行けなかった。ここで生きてここで死ぬ。 貴方より万倍鈍感なあの人に、君が極々たまに優しかった時や、無邪気に笑ってくれる顔を知っているから、だから憎んだことはないと伝えようとしたのだけど、伝わったのかどうか今はもう、確かめる術がないんです。 |