妙なことに脳裏に焼き付いてるのはルードの顔でも声でもその日の酒の味でもなく、ルードの肩越しに見えた「飛べ!」と書いたビールのポスターだ。飛べるかビール如きで。
 俺は相棒の立ち回りを褒め、サングラスを外した素顔を褒め、体を褒めた。そして言った、正直やりたいタイプだ。
「そうか」
 ルードはうっすら微笑んだ。
「おまえは俺が一番やりたくないタイプだ」

 さて弐番街である。比較的治安がよく揉め事が少ない。要は滅多に来ない。滅多に来ないが極たまに仕事があり、極たまに直帰を許されてしまい、人の好みは10年やそこらでは変わらないもので、相棒はあの時と同じ店の前で足を止めた。
「…ここ、やめねえか?」
「前に来たか?」
 ルードの記憶にはない。そりゃそうだ。あれから俺らは何度も何度も何度も何度も飲んだ。平均週2だとしてもざっと960回。俺は二度とルードに色事の話はふらなかったしルードもしなかった。それ以外の話は全部した。後味の悪い任務の後、最高の達成感に見舞われた夜、上司と揉めては飲み、揉めずに済めば飲み、ボーナスを一晩で使い切り、暴れて割ったサングラスを弁償させられたことも、逆に吐瀉物ぶちまけられてスーツ一式弁償させたことも、真冬に財布が空っぽになって寝たら死ぬぞと一晩中しりとりしながら線路を歩いて帰ったことも、出張先の海辺でボトル回し飲みしてるうちに朝焼けが来て今日が世界の終わりでもいいなと零したら俺に乾杯しやがった相棒にうっかり感動してその後「レノに乾杯」を口癖にされてあれほんとやめて欲しい、とにかく印象的な夜など他にいくらでもあるのだ。そんな960回のうちの1回目か2回目。ほぼノーカン。忘れて当然。忘れない俺がおかしい。相変わらずそこにあるこの店もおかしい。何の罪もないがいっそ潰れてて欲しかった。
「あぁ」
 ルードが吐息のように漏らした僅かな風圧で、俺の心臓が跳ね上がった。
「随分前に一度……確か地ビールが揃っててピザが美味い」
「今日の気分はピザよりお好み焼きでビールよりワインだ!ここはやめよう!」
「何処に行く気だおまえは」
 もうだめだ。こいつは完全に地ビール脳だ。大概のことは俺に譲るくせに飲みたい酒は譲らないルードはさっさと扉を押し、ぼんやり瞬きしてる間に俺らはあの夜と同じカウンターに同じ距離で座っていた。
 ポスターはない。内装もメニューも微妙に違う。当たり前だ、10年だ。
「グラスでいいならワインあるぞ。白か?」
「…とりあえずビール」
 急にバカバカしくなってきた。10年だぞ。
「何か言いたそうだなレノ」
 ルードは一瞬もメニューから目を離さないまま呟いた。
「酔う前に言っておけ」
 …いいだろ、もう。俺を10年縛り続けた呪いを解いても。その為にこの店はここにあり続けた。きっとそうだ。そうに決まった。
「…昔ここであんたを口説いたな、と」
「覚えてる。それがどうした」
 それがどうした。それがどうしたときた。
「この和風ピザはほとんどお好み焼きと言って良いのでは…」
「それがどうした!」
 ルードはようやく視線を上げて俺を見た。
「おいルード、悪いがちょっと想像してくれ。目の前に好みの女がいて口説いてみた、そういう状況な?」
「…先にオーダーいいか?」
「だめだ。女の返事は貴方は私が一番やりたくないタイプよ≠ヌう思う?」
 目を伏せて律儀に想像し終えたルードは、すぐにぱちんと目を開けた。
「燃える」
「…だよな。あれ?逆にワンチャンある感じだな?…何故俺は燃えもせずバカみたいに打ちひしがれてたんだ」
「それはおまえが自分の事しか考えてないバカだからだ」
 一瞬、周囲の雑音が消えた。
 俺の時が止まってる間にルードは店員を呼び寄せ、流れるように注文を済ませた。
「…前提が違う。あの時おまえは俺が好みでも本気で口説く気もさらさらないくせに自分が言い寄れば誰でも喜ぶと思い上がって俺を揶揄おうとして失敗し、単に自分のプライドが傷ついてショックを受けた。それだけだ」
 淡々と言い終えると、ルードはサングラスを押し上げた。
「異論があるなら聞くが」
「…その節は申し訳ありませんでした」
「なら解決だ。ところで和風ピザ」
「おぉいルード頼む今だけでいいからメニューじゃなくて俺を見ろ」
 今の俺を。
 まさしくルードの言う通り、あの時の俺は会って間もない同僚の事などおもちゃぐらいにしか思っていなかった。ちょっと色目使えば男も女もドギマギと赤くなるせいで、世の中を舐め切った鼻持ちならないナルシストだった。
 ルードは俺を完全に、正しく、軽蔑した。生ゴミでも見るような目で冷や水ぶっかけられた結果行き場を失ったエネルギーを、俺は仕事に全振りした。今から思うとそれからの方がモテだしたのだが、もう叩き売りみたいなセックスにも他人が寄越す視線にも興味はなかった。真に相棒を取り戻す、それ以外。
「…おまえのことは大嫌いだったが今は違う。聞きたいことがそれなら」
 今は違う。
 ビールグラスに伸びた俺の手をルードが掴み、カウンターの下で皮膚でも剥がすようにするっとグローブを抜いた。水滴で痛むから飲む時は外せと何度言われても無視し続けているうちに、やっと勝手に脱がせてくるようになった。やっと。
「俺も大人げない対応をしたとは思ってる」
 グローブを俺のポケットに押し込むと、ルードはあっという間にグラスを空けた。
「10代のガキなんて世界が自分中心に回ってるものだし頭に精液が詰まってても仕方がない。にしてもおまえは度が過ぎた」
 想像より遥かに酷いこと思われてた。
「…俺の記憶が確かなら、俺らたいして年変わらないんじゃなかったか」
「おまえがろくに目も開いてない時に俺は自分の足で走り回ってたが」
「0歳児と2歳児じゃそうでしょうけども!」
「今は違う。歳下なんて思ってない」
 …今は違う。
 カラカラに渇いていた細胞に水分が一気に染み渡った。急激に潤いすぎて目から溢れそうだ。
 感情をなかなか表に出さないルードが俺を見る目が、ほんの少しずつ変わる。少しずつ声が柔らかくなる。じりじりと。でも確実に。立ち位置がほんの僅かに近くなる。流した血を不意に拭ってくる。昨日より今日。今日より明日。もう少し。あとちょっと。できればもっと。そうやって、10年。
「…レノに乾杯」
 目の前に置かれた2杯目に、ルードがグラスの縁を当てた。俺が言いかけた文句をルードは指一本で遮った。
「本気で言ってる。おまえを尊敬してる。揶揄ってるとでも思うのか?」
 相棒に人を揶揄う趣味なんかまるでない。あの朝焼けはいつだった?こいつは何度も答えをくれていたのに。
「…俺、ちゃんと成長してんのか…」
「成長はどうか知らんが俺は気に入ってるから俺の前では気にするな」
「…なんでそんなにいい男なんだあんた」
「エースの相棒でいるにはいくら鍛えても足らんからな」
「いや体じゃなく…体もだが…畜生、口を開くたび点数上乗せしてきやがるな!」
「口説くか?」
 ルードは真顔だ。
「…何?口説いていいのか?」
「試してみるか?またやりたいタイプだとかふざけたこと抜かしたら10年が巻き戻るが」
「ハードルガン上げじゃねえかよ」
「お兄さんがた」
 まるで視界に入れていなかった店員に不意に声をかけられて、俺らの肩が同時に跳ね上がった。
「ここ初めてじゃないよね。昔来ただろ」
 俺とルードは顔を見合わせ、もごもごと10年ほど前に、とか近くで仕事が、などと交互に答えた。
「目立つふたり組だったから覚えてたよ。全然変わってないね」
 店員というかこれはもうおそらくオーナーだろう男は、愛想良く和風ピザの皿を俺とルードのちょうど中間に置いた。
「10年経ってまだ口説いてる最中とはねぇ」

「もうあの店行けねえ!行く気もねえけど!」
「…客の話は聞いてないフリが鉄則だ」
「だよな!絶対潰れる。潰れるはず。潰れなきゃ潰す。タークス舐めんな。今すぐ会社戻って資金繰り丸ごと洗ってやる。あの一等地だ、叩きゃ埃ぐらい出るだろ!」
「だがピザは美味い」
「ああ美味い!」
「言ってることも道理だ」
 ほとんど逃げるように店を出て繁華街を抜けた鉄橋の上で、ルードは突然立ち止まった。
「…おまえがいいなら俺は構わんが、本当にグローブ脱がされるだけで満足か?」
 触られるたび一瞬震える手を、滲む汗を、ルードの指が皮膚を剥がすのを食い入るように見つめる俺を、こいつは今日まで黙って見てた。引き金を俺に任せて。いつもそうするように俺に譲って。
 俺は思わず欄干に手をついた。こいつは俺を何度丸裸にしたら気が済むんだ。
「…ルード。俺は仕事はできるがそっち方面はあんたのせいでブランクがある」
「だから?」
「だから聞こえなかったとかもう一回言えとか10年後に再トライしろとか無理だからな。3度目はねえから。無理だから。3度は」
「早く言わんと気が変わるぞ」
 まだ宵の口の街中は人と車でごった返し、鳴り響くクラクションと嬌声で騒がしい。俺はぐるりと振り向くと、一言漏らさずルードの耳に流し込もうと胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「…本当に俺はバカだった。何がやりたいタイプだ。あんただ。あんたとやりたい。あんたがいい。あんただけ。あんたでなきゃ嫌だ。あんたといたい。あんたの特別になりたい。だいたいあんたには俺だろ、俺以外に誰がいる、いるなら殺すから連れてこい、俺ならあんたの時間を無駄にしない、他の誰よりも俺はあんたでできてんだ、こんな男を作っといて無責任に世に放つな可哀想だろ、ああもう面倒くせぇ腹立ってきた、好きだ大好きだ頼むから俺をなんとかしろ!」
 もう口説いてるのか脅してるのか縋ってるのか分からねえがこれが俺だよ好きだろ相棒。なんて顔してやがんだ見てらんねえ。というかこんなもの人に見せられねえ。足元で轟音とレールの軋む金属音が鳴り響く。零番街への列車が真下を通過する。
「愛してるぜルード!!!」
 飛べ!
 体が勝手に後ろに倒れ、咄嗟に俺の腰を抱いたルードごと欄干を乗り越えて宙に浮いた。辺りに響いたどよめきと悲鳴は、屋根にすとんと着地したコンマ数秒後にトンネルに潜り込んだ列車のせいであっという間にちぎれて消えた。
「……前言撤回だ。バカに磨きがかかったなおまえは」
 俺の上でルードが唸った。
 今すぐふたりきりになりたくてついなどと言い訳する代わりに俺はそうですねと同意した。もう店どころか弐番街に行けねえ。


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