君を私の何と呼ぼうか



「歳にも困ったものです」
 近藤は、あまり感情が表情に出ない。
 もっとも局長が子供のように表情豊かでも困るので、山南は困ってるのか眠いのか判然としない顔を見ながら愛想よく頷いた。
「そうですね。困ったものです」
「…まだ何に困っているのか言っていません」
「…失礼しました」
「非常に言い辛いのですが、歳…土方くんは貴方を総長にすると言ってきかなかったのです、それはつまり」
「私が邪魔なのです」
 山南はさらりと言った。
 言い訳がましい近藤の、今更な人の良さが微笑ましい。目と耳があれば子供でも分かるようなことだ。
「何の権限もない位をわざわざ作って私を棚あげするほどですから余程に邪魔なのでしょうが、今始まったことではありません。邪魔にされるのはむしろかってくださっている証拠と思っております。お気遣いは無用に」
「…貴方がもし不満なら、私からもう一度土方くんに」
「不満など。私の処遇などで局長を悩ませるのは私も土方くんも本意ではない。その辺りはふたりでじっくり話し合って折り合いをつけております」
 山南は「じっくりと」を強調した。
「貴方には他に大切なお役目が山とある身。我々の小競り合いなど、鴉が騒いでる程度に聞き流してください」
 近藤は目をぱちくりさせて「からす」と律儀に復唱した。
「鴉が騒ぐと気になります。不吉ではないか」
 山南は内心溜息をつきながら、それでも柔らかく微笑んだ。
「…それでは雀で」

 同じことを昼間、永倉にも言われた。総長などとは名ばかりで何の権限もない、貴方はいったいそれでいいのか、同じ副長職にいた土方さんひとりをのさばらせて腹は立たないのかと。
「まったく」
 山南の返事に永倉はますます激昂した。
「貴方は人が良すぎる!!」
 私がいいと言っているのだから構うなと止めるのも聞かず、永倉は猛ダッシュで土方に直談判しに行った。もっともそのまま戻って来なかったから、あっさり論破されたのだろう。土方は頭がきれる。永倉では敵わない。
 山南は自分で茶を入れて自室に戻り、ちびちび啜りながら途中だった本を開いた。
 …本当に人が良いのは近藤さんや永倉くんだ。
 私じゃない。

 挨拶もなく障子が開いた。山南は本から目を上げないまま「遅かったですね」と呟いた。
「昼間永倉が来た」
「ああ…」
「あんたをもっと立てろって凄い剣幕で。なんだアレは。惚れてんのか」
「…人が良いだけですよ。気にしなくていい。雀みたいなものです」
「別に気にしてねえが」
 土方は後ろ手で障子を閉めた。
「雀にしちゃでかいな」
「…では鴉で」
 じじっ…と炎が蝋を吸い上げる。
 土方はあぐらをかいたまま、山南が本を閉じるのを待った。
 黙って、じっと動かず、ただ相手の出方を大人しく待つ。
 それが土方の一番の苦手だと知っていて山南は

 嬲っているのだ。



 総長とはまた、不思議な職をくださいましたね。
 あの日。山南は新選組の組織図を書き終えて近藤の元へ急いでいた土方の肩を、その細腕からは信じられないような力で掴んであっという間に図面をひったくった。
 取り返そうとして思い直した。どうせいずれはばれることだ。
「…総長とはまた不思議な職をくださいましたね。系統図から外れている。軍事面への権限が何もないようだ」
「いいんだろ?別に」
「構いませんよ」
 土方は肩すかしをくらった気になった。嫌味のひとつも返るかと思ったのに。
 山南は微笑したまま図面を丁重に丸め、土方に差し出した。
「君は組織図を書かせたら日本一だ。序列がはっきりしていて隙がない」
「…そりゃどうも」
「一応親切心から忠告しておきます。訂正するなら今だ」
 それだけ言うと、山南はさっさと背を向けた。
 勝手に頬が緩んだ。なんだそれは。それで球を返したつもりか。山南も案外たいしたことはない。
 それでも近藤の部屋に入る前に、念のため、もう一度隅から隅まで確かめた。ぬかりはない。誤字もない。近藤が山南に気遣って渋らないよう、総長に権限がないことはぱっと見には分からない。我ながら巧妙だ。完璧だ。

 今なら分かる。土方は致命的な失敗をした。
 何もかも取り上げるべきだった。どんな柔羽も毟りとるべきだった。近藤の反論も隊士の反発も覚悟で一気に格下げするべきだった。
 確かに総長職には軍に対する権限がない。だが建前とは言え、組織図上、総長は副長より上なのだ。
 山南は、土方より、上なのだ。
 例え、土方しか知らなくても。



「…山南さん」
「キリがよいところまで待ちなさい」
 しびれをきらせてかけた声は呆気なく叩き落とされた。山南の声音はいつも、天から響くように柔らかい。
「…命令か」
「命令です」
 命令ならば聞くしかない。上の者に逆らうは士道に反する。
 耐えろ。
 土方は膝の上で拳を握りしめた。まるで相手がいないかのように無視する、昼間土方が山南に散々やっていることだ。
 毎晩部屋へ呼んでおきながらじりじりと焦らす。締め切った部屋の空気はふたりぶんの呼吸でどんどん薄くなる。あまりの屈辱に息が上がる。苛立ちが焦燥になり懇願になり渇望になる。何度も怒鳴りかけ、何度も立ち上がりかけ、何度も手を延ばしかけ、発作のように襲ってくる衝動をそのたび非常な努力で抑え込む。
 …俺を誰だと思ってる。俺がここにいて、あんたが俺をいないもののように扱うのはおかしい。いい加減に何か言え、俺を見ろ、俺に反応しろ。
 いつも山南は絶妙のタイミングで本を閉じる。
 そしてこっちを見る。
「いいですよ土方くん」

 ひ

       じ か 

           た 

            く 

                  ん 


 その瞬間、射精したような快感で体が震える。
 待ちこがれた自分への視線と自分への声だ。もう理性なんかふっとんでぐちゃぐちゃだ。モノからようやく人間扱いされた安堵で涙が出そうだ。無視されるのがどれほど辛いか思い知らされる。昼間この男を同じように苦しめているのかと思うとゾクゾクする。気まぐれに恵まれる冷たい指や、熔けるように熱い声や、やたらと柔らかい唇は、どれもこれも長い間お預けをくらって飢えた犬のような体に甘すぎる。いつ気が変わって突き放されても仕方ない、これは昼間の罰だ、思うと、余計、たまらない。俺だけだ。「温厚で優しい」山南の、こんな目を見られるのは俺だけだ。こんなふうに扱われるのは俺だけだ。

 昼間は好きにして、夜は好きにされる、そんなことはたいして長く続かなかった。
 だんだんと事情が許さなくなり、やがて終わった。
 山南には俺を夜、好きにできるだけの権利じゃ全然足りなかった。他に欲しいものがいくつもあった。だから捨てた。だから逃げた。俺にはよかったのに。俺にはあんたでよかったのに。
 
 土方くん、私は何もいらない。
 近藤さんが安心して大儀を全うできるのなら、君の好きにすればいい。

 嘘つき。





 あんたに会いたいとは思わない。あんたの顔なんかとっくに忘れた。
 今もなお俺に膝をつかせるのはあんたじゃない。
 骨が軋むほど恋しいのはあんたじゃない。
 あの息苦しい四畳半。
 あんたの帝国。
 ただそれだけ。



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