「以蔵って誰だ」 土方はたった今まで寝ていた。ただ寝ていたのではなく、何だかとてもいい夢を見ていた。 人の気配に反射的に飛び起きて刀をひっ掴みスパンと障子を開け放ったものの、目の前にいるのが斉藤だと分かるまでに随分と時間がかかった。別に斉藤の顔がちょっと見ないうちに様変わっていた訳でもなんでもないが、単に寝惚けていたのと、セリフの意味がまったく分からなかったのだ。 「……斉藤か?」 「土方さん。以蔵って誰だ」 「いぞう?…おまえなんでここに」 記憶違いでなければこいつは今新選組ではなくて、えーそうそうあの、ほら、あいつの。伊東のところへ…。 「あ!」 「思い出したか」 「伊東が動いたか!?」 「まだだ。それより以蔵って誰だ」 「それよりっておまえ、以蔵だか地蔵だか知らねえが平助の傍を離れるなとあれほど言っただろうが!」 勿論土方は、斉藤を部屋へ引っ張り込み障子をきちんと閉めてから怒鳴った。 「屯所の見張りを軽々かいくぐられたんじゃ俺の立つ瀬が、いやそれよりおまえは俺の言うことがきけねえのか?それならそれでこっちにも考えが」 「きく。今までもきいてきたしこれからもきく。きくから俺の言うことも聞いてくれ。以蔵って誰だ。土佐の岡田以蔵」 「…岡田」 土方はちょっと中に視線を彷徨わせて、すぐ「ああ」と頷いた。 「噂は聞いてる。そいつがどうした」 「そいつが俺に似てると言われた。坂本龍馬に」 「…だから何だ」 「だからどういう奴か気になった」 「…だから何故それをわざわざ夜中に屯所まで駆け戻って叩き起こしてまで俺に聞く」 斉藤はふつっと黙った。黙ったが、目はまっすぐ土方を見たままだ。 そんなことを知りたければ御陵衛士には伊東好みの物知りがごろんごろんいるのだ、加納にでも、それこそ伊東本人にでも聞けばいい。 「…以蔵っつったらあれだろ、なんだ、土佐勤王党とかいうとこにいた人斬…えらく腕のたつ奴だろ」 「それだけか」 「…勝海舟の周りちょろちょろしてたんじゃなかったか?」 「それだけか」 「…もう死んだ。総長と同じ時期に」 「それで」 「寝かせろよ」 「それで」 「可愛らしい顔だ」 「…そうなのか?」 「知るか。おまえに似てるならそうなんじゃねえのか。もう寝る」 「土方さん!」 土方は本当に刀を放り出し、代わりに枕を抱えてごそごそ布団に潜り込んでしまった。 「土方さん、俺が聞きたいのは人斬」 「…あんまり俺を怒らせるな」 声音が一変した。布団に延ばしかけた斉藤の手が空中でびりっと震えた。 「誰かに向かって誰かに似てるなんて簡単に言う奴ぁ大嫌いなんだよ。おまえは誰にも似てねえ。そいつと同じことにもならねえ。分かったら余計なこと考えんな。おまえが斉藤一なら俺の言うことをきくはずだ。ただちに帰れ」 頭まで被った布団の中で、耳をすませた。斉藤が小さく溜息をつき、気配が畳の上を移動した。 …頼むから、おまえまで余計なこと考えるな。 誰かに黙って従うことほど楽な生き方はない。 誰かに敷いて貰ったただ1本の道を何も考えずに進むことほど簡単な生き方はない。 それなら自分を責めずに済む。悩まずに済む。おまえはそうしていればいい。 下手に物を考える奴は自分の立ち位置をあっちこっちから検証して何千本の道を見つけてしまう。見つければ見つけるほど迷う。立ち止まる。滅びる。誰だかのように。もうごめんだ。二度とごめんだ。 近頃の斉藤の目はあいつを思い出させる。責める目だ。迷う目だ。深いところで揺れる目だ。 恨むぜ坂本。よりによって以蔵か。暗殺道具だ。主君にいいように利用され散々斬りまくった挙げ句、裏切られ見捨てられ拷問され口封じに盛られてそれでも死にきれずに斬首された、貧民街の人斬りだ。んなことを斉藤に言えるか。まったく北辰一刀流にろくな奴はいねえ。 死んでいく奴はいつもそうだ。いつもそうやって余計な言葉を残す。 死んでいく身で生きてく奴らを食い散らかす。 斉藤は… 土方は一端閉じかけた目を開けた。 俺に何を聞きにきた。 「土方さん」 「…ただちにと言ったぞ」 「俺は以蔵じゃない」 「ああそうだ。分かればいい」 「山南さんでもない」 障子が閉まった。 のろのろと体を起こした土方は縁側まで這っていって、指1本ぶんの隙間から庭を窺った。もう影も形もない。 空には触ると切れそうな三日月。 斉藤は、屯所からもう随分と離れたところを小走りに急いでいた。 君が為 尽くす心は 水の泡 … 岡田以蔵の辞世の句だ。以蔵のことは知っていた。中岡から聞かされた。 どんなに悲惨な人生だったか。どんなに主君を憎んだか。 微笑おうとしてうっかり泣いた。三日月でさえ泣くには明るい。 俺は他の誰でもない。斉藤一だ。あんたのものだ。 水の泡でも俺はいい。 あんたの泡なら俺はいい。 だから分かってくれないか。 早く忘れてくれないか。 |