「ゲイだからだ」
 大河内は、真顔で、きっぱりと、言い切った。
 もっともこの男が真顔できっぱりと言い切らないことなどあまりないのだが。
 あった時は相当な異常事態であって、つまり彼にとってこの発言はまったくもって通常ということになる。とすると異常なのは自分のほうか。
 神戸はとっくに中身が水になったグラスを握りしめたまま、二度瞬きした。
「…そうなんですか?貴方が?」
「おまえがそうでなきゃ俺だろう」
「何故そんなことを急に今、かつ僕に」
「おまえが店を出た後うちに押しかけてこようとしているから断る理由を言ったんだ」
「…僕は押しかけて行こうとしてたんですか?」
 大河内はやれやれと眼鏡を押し上げた。
「そういう飲み方をする時はいつもそうだろう。そしていつも俺は断ってるだろう。なのにいつもおまえはしつこく絡んでくるだろう。そこでいつもタクシーの前でおまえを突き飛ばしてその隙に急発車させて振り切る羽目になるだろう。翌日いつもおまえは杉下警部を捕まえて、大河内さんに置き去りにされましたよたまには泊めてくれてもいいのに冷たいなぁとほざくだろう。そこでいつも杉下警部はさぁ何故でしょうねぇなんぞと惚けさせられた挙げ句に俺にチクチクご注進してくるので俺はついに」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 いつもいつもの連呼を制して神戸は再び瞬きを繰り返したが、たいして視界も頭の中も晴れず、その間に大河内は真顔のまま首を90度まわして自分のぶんの追加オーダーを店員に申しつけた。
「…え?え?つまり杉下さんは知ってるんですか?」
「そうなるな」
「え?誰にでも言っちゃうんですかそういう、その、えぇえ?」
「おまえの高音は響くんだ。トーンを下げろ」
 ほとんどカウンターに両肘をついて体を支えている神戸と対照的に、大河内は背筋を伸ばしたままスマートにグラスを受け取った。
「あの人は大昔に事件絡みで勝手に察しただけだ。自分から言ったのはノーマルじゃおまえが初めてだ」
 いつもの数倍頭の動きの鈍い神戸はしばらく手の中でぐるぐるとグラスの氷をまわしていたが、やっと附に落ちて小さくため息をついた。
「…良かった」
「何が」
「皆知ってて僕だけが知らなかったら悔しいじゃないですか」
「子供か」
「そうか、初めてですか。ありがとうございます」
「酔うとタチが悪いと言ってるんだが」
 神戸は少し微笑った。
「それでも」
 氷水を啜りながら何事か考え込んでいる神戸の横顔を、大河内はまじまじと眺めた。こうしてみると理知的に見える。見えるも何も実際に頭はいいのだが、大河内から見ると神戸はどこか危なっかしい。危なっかしい時に重点的に飲みに誘うので当然といえば当然だが、人に弱みを見せまいとするプライドの高さは自分と似ている。自分がはけ口になれるなら結構なことではないか。タクシーの前で騒ぎさえしなければ。
 とはいえ杉下右京の名前を出したのは失敗だった。連鎖的に昔の恋人を思い出す。自分は恋で人を死なせた。だからもうしない。二度と恋愛なんて真似はしない。だからこそこうして、今は警部の相棒である神戸とふたりで飲む気にもなれる。神戸のことは気に入ってる。純粋に。純粋、の意味をまだ自分が覚えていればだが。
「大変なんでしょうか」
 不意に神戸がつぶやいた。
「恋愛対象が女性でないというのは」
「人類の約半分という点では同じだな」
「人と違うということで悩んだりは」
「違うのは当たり前だろう。事実なんだから仕方ない」
「…かぁっこいい」
 神戸がにじり寄ったので、大河内は詰められた距離のぶんきっちり離れた。
「かっこいいですね大河内さんは!」
「声が大きいあと近い」
「僕は人との違いに悩んでばかりですよ!ほら人より著しく整った顔とか?人より優れた知性とか?」
「人より悪い酒癖とか人より劣るグロ耐性とかな。あと近い」
 おかしい、カミングアウトまでしたのに事態は悪化の一途だ。嫌がらせなのかこの距離は。いっそ相棒を呼び出してやろうか。あの天才の前では無理矢理にでもしゃんとするのだ。神戸も。自分も。誰も彼も。
「…極たまに、いい勘とか」
 神戸の声は唐突に1オクターブも下がった。

「大河内さん、僕のこと好きでしょう」

 一瞬音が消えた。
 今度は大河内のほうが二度瞬きした。ゆっくり店内の喧噪が戻ってくる。
「好きだから、カミングアウトで牽制したんでしょう」
「…好きだったら牽制する必要ないだろう」
「普通の人はそうでしょうね。でも貴方は人と違う」
 神戸が体をひくと、残像のように香水の香りが尾をひいた。
「貴方は、好きだから牽制する人なんですよ。あぁ大河内さんは他の人と全然違うな。人より優しいし人より鈍いし人よりずるい。僕から距離を取ってくれって訳だ。残念でした、僕は逃げません。距離を取りたいなら貴方が逃げてください。いつもどおり」
 ところで今日ふたりして飲んでいたのは神戸が以前の失態を引きずってぐだぐだ悩んでいたからで、飲み始め最初の5分で大河内は言ったのだ、逃げるなと。なんだこのブーメランは。
 危なげもなく上着を掴んで立ち上がった神戸は、目にも止まらぬ早業でクレジットカードの提示と髪をかき上げつつ店員へウインクかますのとを同時に、しかも完璧にこなした。
「ま、今日は大河内さんに敬意を表していい子で退散しますよ。杉下さんにも金輪際愚痴りません。僕と貴方の事件は僕と貴方で解決するってことで。では、おやすみなさい」
 呆気にとられていたので大河内までうっかりウインク光線をまともにくらってしまった。おまけにいつの間にやら事件が勃発している。俺と神戸の間柄は至って平穏なはずなのに。
 好きでしょうとか言ってたが違ったら相当かっこ悪いぞ。二枚目の思い上がりってやつは心底愉快だな。低すぎてばれないとでも思ったのか、緊張で声が震えてたぞ、おまえの勘違いだ残念だなばーか。
 と言いたいところだが長年心にセーブをかけすぎて好きとかなんとか瑞々しいこと言われてもぴんとこない。
好きなのか?俺が神戸を?そりゃ好きは好きだがそういう好きか?これは早急に解決すべき事件なのか?時効を狙うべきなのか?というか俺が逃げて時効を狙うのか?俺が犯人なのか?何の?
 試しに自分と神戸があれこれする図を想像してみようとしたが、即座に公衆の面前ですることではないと気付いて勢いよくグラスを空けた。家に帰ってゆっくりやろう。
 恋か否かはさておいて、と大河内はタクシーに向かって手を上げながら考えた。
 神戸のほうこそ人と違う。顔だの知性だのはどうでもいいが他の何かがとんでもなく違う。少なくとも自分にとっては。異常に。決定的に。世界でたったひとつ生き残ってる新種の個体みたいに。永久に何とも代わりがきかないぐらいに。つまり、まあ、特別に。
 恋か否かはさておいて。




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