日が傾いてゆく。
いや、違う。地球だ。傾くのは地球。
門前で、庭先で、縁側で、台所で、井戸端で、路地裏で、座敷の隅で、全員がそれを見ている。
刀の手入れをしながら、涙を拭いながら、思い出に耽りながら、自分の腹を撫でながら、何も考えまいとしながら、何かを画策しながら、苛々しながら、ぼんやりとそれを見ている。
山南。山南さん。山南くん。山南先生。山南殿。山南総長。
「会うか?」
近藤は朝から何度も山南が軟禁されている板の間に出入りして言葉をかわしていた。
気は進まないだろうが、それが仕事なんだから仕方がない。
「俺はいい」
座敷の手前で踵を返した。
別に会ってもよかったが。ああ、別に会ってもよかった。言ってやってもいいかと思った。
色々ご苦労だった、おまえはバカだと。
第一脱走するほど思い詰めてたならそう言えよ。へらへら笑ってるから分かんねーんじゃねえか。仮の話ですと言わなかったかあんた。返した返事も仮の話だと思わなかったか。あんたのやってることは無茶苦茶だ。女連れで逃げたって?なんなんだそりゃ。目の当たりにした総司なんぞ仰天して言動が支離滅裂だ。いい女かと聞いたらそれどころじゃないですよと半泣きで怒られたが、いやあ俺は気になるなあ。なあ、肝心なとこじゃねえか?男が道中の連れに選ぶってのは生半可な相手じゃねえだろうよ。そのへんの散歩であれ、武士道であれ、鬼の道であれよ。
なあ山南さん。静かに逝きたいだろう。
最後の最後にブツブツと、俺にんなこと言われたくねえだろ。
俺の顔なんぞ見たくねえだろ。
見たくねえんだろ?
それから地球は更に傾いて、もう何度も回った。
移転先の西本願寺には、伊東と島田の三人で向かった。道中、無言だ。
足が無駄に速い島田は随分先をズカズカと歩いているし(一本道だから放しておいても平気だろう)伊東と俺は肩を並べて歩いてはいるが虫が好かない同士。会話はない。ああ、連れとしちゃ山南のほうが百倍はマシだった。
俺はさっきの会合の模様をぼんやり思い出した。
「総長が反対していた」という理由で屯所移転を先延ばしするよう意見した、山南贔屓の永倉。
あいつは悪い奴じゃねえが、愚鈍過ぎる。生前の意思を汲んで先延ばしにする、それに何の意味がある?奴が彼岸で喜ぶのか?奴がまだそんなことを気にしてその辺を彷徨ってるとでも思うのか?あんな微笑い方をした奴が?
「土方くんは面白い人ですね」
突然伊東が呟いた。
「……あ?」
「私には君がよく分からない」
「分かって欲しくもねえが?」
俺は伊東の代わりに道端の石ころを勢いよく蹴ったが、この参謀は黙らない。
「壬生にいると山南くんを思い出して辛いと何故言わないのです。言えば永倉くんもすぐに納得するものを」
「…そりゃ総司の意見だ」
伊東は笑った。
「君が言わせた」
思わず立ち止まったが伊東は止まらない。扇子でぽんぽんと肩を叩きながらすたすたと先を行く。
「君が言わないから沖田くんが言ってくれた」
「違う」
「違わない。あまり見くびらないで頂きたい。鬼に徹して本音を隠したつもりかもしれないが、まだ仮面と皮膚が馴染んでいない。隙間があって感情がぼたぼた漏れている。君の本音を察した人達が、いつもいつも君の代わりに言ったりやったりしてくれる。君は幼い。助けてもらっていることに気付いてない。君は本当は山南くんを逃がしたかった。でもできない。察した井上さんたちが代わりに骨を折ってくれた。君は本当は山南くんを憎んではいなかった。でも周囲にそう思われていた。察した沖田くんや斉藤くんが代わりにそうではないと弁明してまわった。君は山南くんをかっていた。私のような者が現れて一層山南くんが貴重になった。でも本人には言えなかった。だから私に漏らし、私はそれを本人に伝えた」
いつもは右から左へ聞き流す伊東の台詞は、途中で壁に阻まれたように跳ね返り、頭の中をぐるぐる回り出した。
「…伝えた?」
「昼間のうちに山南くんと会って伝えた。土方くんは貴方を必要としている、憎んでもいないし失いたくもない、古い付き合いの友人だと庇ったと、そのままを。君が言いたかったことです。君が言えないから代わりに私が言った。…面白いというのはそこですよ、何故君のために私がそんなことをする気になったのかな。君には何か魅力があるんでしょうね。不思議だ、鬼が皆に愛されている」
「山南はなんて」
ああ、みっともない。みっともねえ。声が掠れる。
伊東は振り向かない。俺の顔を見ない。みっともない俺の顔を覗き込んだりしない。
…好意だ。
気付いた途端、足下の地面がふわりと浮き上がった。
「知っています、と仰いましたよ」
これは、伊東の好意だ。
「知っています、土方くんの口から聞くことは生涯ないだろうが知っていました、古い付き合いですから。これ、山南くんの言葉そのまんまです」
俺は今まで何人の好意に触れた。
なあ山南さん。俺なんか見たくねえだろう。なら見せないのが好意だよな。
心と裏腹に手が障子を開けて、山南はまったく驚いたふうもなく俺を見上げた。
はは。見たくねえのは俺だったよ。
俺はあんたの顰め面を見たくなかった。あんたの遠い目を見たくなかった。あんたの横顔を見たくなかった。あんたの白々しい笑顔を見たくなかった。白々しくなくとも他の方向に笑うのを見たくなかった。
生きてる時でさえそうなんだ。
あんたの内臓なんかもっと見たくねえ。
あんたの生首なんかもっと見たくねえ。
腹かっさばく時の顔なんか、この世で一番見たくねえ。
俺が来るのを知ってたか。なら腰に二本、差してくるのも知ってたか。
いっそ抜いて、俺に斬られちまえよ。そうしろよ。
武士がなんだよくだらねえ、死ねば同じ生ゴミじゃねえか。
大勢の前で腹捌くような芸当する必要はない。無駄に苦しむことなんかない。あんたはそんなことしなくても立派に武士だ。
俺が逝かせてやる。綺麗に、五体満足で、うんと、うんと楽に、天国へだ。
先生山南総山南さん山南山南先生山南さん総長山南総山南く山南先生山南さん
あちこちから放たれて降り注ぐ山南への声。壁を突き破って飛んでくる山南への想い。
うるさいよおまえら。ああうるさい。
山南はひとりしかいねえんだよ。俺の前にしかいねえんだよ。あっちこっちから呼ぶんじゃねえ。
結局俺は何もできなかった。
山南にとんでもない好意で背中を押されて。ふらつくほど重い好意で撫でられて。
白々しくもわざとらしくもない綺麗な笑顔を、俺に向かって一直線に見せられて。
なあ山南さん、知ってたか。どうしようもない独占欲だ。
あんたの息の根を止めたかった。
どうせ死ぬなら俺が止めたかった。
どうせ死ぬなら抱きたかった。
そして俺は伊東から聞かされる。隣室でじっと息を潜めていた連中のことを。
要らぬはずの刀を持って切腹の直前に出ていった俺を、咎めもせずに見送った奴らのことを。
邪魔をするな。山南さんと土方さんを邪魔するな。
土方くんが戻ってくるまでは、七つ時が過ぎても動くな。
どうしようか山南さん。こんな俺が愛されてるよ。
あんたへのどんな好意も許せずに叩き落としたこの俺が、人生の締めまで勝手に攫おうとしたこの俺が、あんたを葬ってまだ愛されてるよ。
あんたがいないところで地球が傾くのを
どうしよう。
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