ACT.12
山南が土方と出会ったのは、土方がまだ学生の時だった。
土方が頑なに近藤にふたりの出会いを語らなかったのは、単に苦々しい思い出だというだけではなく、恥ずかしかったからだ。自分が俳句にかぶれて俳句雑誌に投稿していたことが。自分には才能があると思いこんでいたことが。選考編集していた山南が家に電話をかけてきたことで舞い上がり、必死ですり寄ったのが自分であることが。
自分の句が掲載される(素人の句を大御所が添削するページだったにも関わらず)ことに土方は喜び、ささやかな掲載料が出る(句がダメである点を事細かに公開されることに関する許可料だったにも関わらず)ことにも喜び、わざわざ版元まで出向いて山南からその料金を受け取った。
こういう立場で出会った学生には、当然社会人であり憧れの雑誌の編集者である山南は眩しい大人に映った。
山南にも、土方に自分がそう映っていることは分かった。
「俺の句は…その、なんとかなりそうですか」
土方はわくわくして尋ね、山南は「そうですねぇ」と答えた。
「まだなんとも」
山南から見ると、土方の句は確かにある種の魅力はあった。素直で、力強い。ただ、それだけでもあった。若さならではの清々しさはあったが、根っから文学志向ではない土方の言葉の選び方は雑で荒っぽかったし、あらゆる年代の心を打つような文字の音や並びを選んでひとつひとつ推敲してそぎ落とすという芸当はできそうになかった。
土方にはこんな繊細で個人的な世界は向いていない、文学の才能がないというより、他の才能のほうがありそうに見える。
もっと人を動かしたり、分かりやすく勝ち負けが決まる世界のほうが向いている。
ただ遊びにきただけの学生にそんなことをあれこれ思ってる時点で、既に山南はおかしかった。
君に才能はないよ、別のことをやってみなさい。
そうはっきり言って土方をがっかりさせたくなかった。何人にもそう言ってきたのに土方には言えなかった。言ったら、終わるからだ。土方が自分を見る期待と憧れに充ちた目が終わるからだ。
つまり。
「…自分の社会的立場を利用して純真な学生を弄んだというように聞こえますが」
「そのとおりです」
山南はすぐ道の脇の路駐自転車を見ながら、遠い目をした。
「どうかしてました」
「ほんとですよ」
少し頭を冷やそう、と話がまとまり、近藤と山南は真っ暗に日が落ちた高速の高架下を並んで歩いていた。井上は近藤に言われて先にタクシーで社に戻り、珈琲を準備してくれているはずだ。
ふたりの昔の話を聞きたい、と近藤が言い出した途端、土方が烈火の如く怒りだし、俺の前で話したら殺すなどと3人まとめて追い出した理由がやっと分かった。それは恥ずかしいだろう。近藤の知ってる土方は、スポーツ万能でバンドをやってて女の子にモテまくる派手なスターだったのだ。まさか俳句をひねるなんて渋い趣味に走っていたとは夢にも思えなかった。
「…一目惚れだったということでしょうか?」
「あの人に一目惚れしない人がいますか」
いるだろうそりゃ。
近藤は、自分の知らない高校・大学時代の土方というものを想像してみた。
「文芸にかぶれてたので妙にストイックといいますか、粋に触れるとか言って着物にもはまってましたね」
「しゃ、写真とか」
「持ってましたけど別れるときに全部破かれまして」
「役に立たないな!」
「すいません」
会社に戻ったら、そこからは社長と編集部長になる。男同士の話ができるのは今だけだ。
「そんな訳で私はただ会いたいだけの理由で彼を飲みに誘ったり芝居に誘ったりしました。土方くんはいつも喜んで付き合ってくれましたが、相変わらず俳句への夢や希望を抱いたままでしたし、私もあえて抱かせたままでした。で、付き合うことになりました」
「何かすっ飛ばしてませんか」
「ません。君のことが好きだと言ったら土方くんが了解したんです。2年付き合いました」
「夢や希望は抱いたまま?」
「抱いたまま」
自分が文芸誌の編集でなければ、土方は決して付き合ってくれなかっただろう、と山南は考えていた。
実際に山南は会ったその日から嘘ばかりついていたのだから。
土方はとっくに山南に慣れない敬語で喋る努力を放棄していたが、社会人と学生という違いは大きい。環境が違うし休みが違うし修羅場のタイミングも違うし収入も違うし悩みの種類も違う。何かにつけ土方は、山南のほうが明らかに立場が上であることを思い知らされてかんしゃくを起こしていたし、そのたび山南は自分のついた嘘に苦しんだ。同い年だったら良かったのに。同じ学生か、社会人になってから知り合えば良かったのに。だが皮肉なことに、ふたりは土方が学生でなくなるタイミングで、別れた。進路を考え出した土方に、山南が言ったからだ。
きみにはこんな繊細で個人的な世界は向いていない、文学の才能がないというより、他の才能のほうがありそうに見える。
もっと人を動かしたり、分かりやすく勝ち負けが決まる世界のほうが向いている。
「いつからそう思ってた?」
土方は聞き返した。
「なあ。いつからそう思ってた?」
好きなだけなら最初から好きなだけだと言っていれば良かった。
それで俺があんたを好きになるかならないかは俺に任せてくれれば良かった。
好きになったと思う。だけど思うだけだ。あんたは言わなかったんだから。
あんたは2年間俺をバカにし続けた。それが事実だ。
土方は決して山南を突き放した訳ではなかった。もしかしたら、怒った訳でもなかった。ただ、傷ついたのだ。
もう嫌いになったとか、別れようとか、そんなことは一言も言わなかった。
言ったのは山南だ。もう無理だ。土方の気持ちより、土方を傷つけた自分が辛くて逃げた。
土方が今の職業についたのは、勿論山南が原因だ。
ちょっとばかり年上なのが効果的なのは今だけだ。同じところに立って、おまえが俺より遙かに無能だってことを数字で証明してやる。
あんたに一瞬でも抱いた幻想をあっという間に破壊してやる。
まさかと思ったが、土方は、本当にそれに成功した。
雇い主が幼なじみだということを差し引いても、二年後には、業界では山南よりうんと名が通っていた。
山南は土方の名前を、売上票や、情報誌や、書店や、会議の書類や、人の噂で毎日見聞きした。
4年も会っていないのに、毎日好きになる。
こんな狭い業界じゃ必ずいつか会ってしまう。不意にそんな機会がきたらどうすればいいんだろう。その時に土方が自分のことなど忘れていたらどうすればいいんだろう。忘れていなかったらどうすればいいんだろう。ずっとずっとこうやってびくびくしながら生きていくのか。決して許されないにしても、今、土方のために自分にできることはなんだろう。このまま業界を辞めて、二度と目の前に現れないことだろうか。それとも、現れることだろうか。
結局山南は、乗り込んだ。土方に、審査される側として。
面接する側として向かいの席についた土方は、四年ぶりに会った山南をじっと見た。そしてにっこり笑った。
「初めまして、山南さん。ずっと会いたいと思ってた。…噂を聞いて」
山南、永倉、原田、新見、芹沢の5名が社を抜けた。
「ほら、土方が死ななかったもんだから。一部取り損ねて嫌になっちゃったんじゃないの山南さん」
「いやぁ毎日毎日ぎゃんぎゃん怒鳴られてたらそりゃ逃げたくもなるだろ」
「ていうか永倉原田は元から山南派閥だけど、あとのふたりは何なの」
「芹沢は一部の連中殴ったからじゃないの」
「新見は何なの」
ああ、誰も給与体系がおかしいとか、土方と山南はできてたんじゃないかとか言わない…。
井上はコーヒーパックを交換しながらため息をついた。新見さんが言ったとおりだ。その点には口を噤んでくれた。
会社の創業時に立ち会った4人に特別手当をつけたのは近藤だった。この業界は転職が非常に多い。二社・三社の転職歴は当たり前と言ってもいい。だから初めの何年か、決して余所に移らず社に親身に貢献してくれるようにという、いわば家族手当のようなものだった。それが何年も何年もなし崩しに続いてしまったのは、確かに近藤と、止めもしなかった自分や沖田や土方の責任だ。その代償がこれならば、当然引き受けなければならない。我々はそれだけのことをしたのだ。
今は手当を解いて全員査定と基本給に基づいて平等に給与が支払われ、担当も河合に移ったが、誰も、そんな手当があったことに気付かない。今もこれからも。
藤堂も永倉に声をかけられたが、迷った末に転職を見送った。
「まだ沖田さんに勝ってません。仕事で勝って、他のことでも勝ったらまた考えます。社内恋愛は大変だって山南さんも言ってたし!」
爽やかに言ってるが、近藤には意味不明なうえ腹立たしい。
確かにあの土方とあの山南に堂々と社内恋愛なんかされたら自分が不快な以前に会社中が大パニックになるが、堂々とくっついてった永倉&原田と新見&芹沢だって怪しいもんじゃないか。まあ後者の場合はふたりセットでなければうまく仕事に使えないわけで、どっちか片方残されてもこっちが困ったが。
ああ、まるで何から何まで山南さんに、完璧にお膳立てされてるようだ。
「…しかも連中の行き先は伊東さんとこか…悔しいな」
社長室の椅子ごとくるくる回しりながら、近藤は斉藤から渡された書類に目をおとした。
「あの会社、求人出してたし新部署立ち上げて人員増やすって噂はありましたけど。伊東さんみたいなタイプは山南さんみたいな人は苦手かと思っていた。どっちかというと君みたいな人を欲しがるのかと」
斉藤は、居心地悪げに瞬きした。
「…あの人は兵隊も好きだが、自分と同じようなインテリも嫌いじゃないから」
「芹沢さんに誘われたのでは?」
「誘われた。行ったほうが良かったか」
「まさか。ただ君は芹沢さんとは付き合いが長いし、恩があるといつも言っていたから」
「あんたにもある」
いつもなら合った途端に目を伏せる斉藤が珍しく視線をそらさず真っ直ぐ見返してきたので、近藤は驚き、少し感動した。
「それは…いえこちらのセリフです。ありがとう斉藤くん」
「あんたはお金を貸してくれた」
「…そんなのはどうでもいいけど」
「どうでもよくない、俺は忘れない。あんたの下にいることは、自分で決めた」
斉藤は、言ってから自分の言葉に深く頷いた。
山南さんみたいに誰かひとりのことで頭がいっぱいになるようなことは、しばらくないだろうけど。
また毎日心配事の絶えない日々が始まるんだろうけど。
こんな自分を嫌ったり見下ろしたりする人間が、これからもいるんだろうけど。それでも。
「俺は、自分で、決めたんだ」
今日も社内は相変わらずだ。
土方は毎日元気に怒鳴り散らしているし、床には討ち死にした屍が累々と並ぶ。一部と二部が統合したため人数は1.5倍に膨れ上がり、更に声のボリュームを上げなければ端から端まで届かない。それでも山南の部署に勝ったの負けたのぎゃあぎゃあ騒いでいたのが少しはマシになるかと思いきや、今度は他社の売り上げと比較してぎゃあぎゃあ騒ぎ出しただけなので、部下をはじめ藤堂のストレスは微塵も減らない。まあ、同じ会社の他部署に牙を剥いているより、健全といえば健全だが。
沖田はしばらくしょげていたが、芹沢が居なくなったために役職が格上げになり、愛想以外の仕事の腕をようやく真剣に磨きだした。武田は土方の退院直後に「副長お勤めご苦労様でした!」とやらかして壁まで飛ばされたがまあ元気だ。
「ひじかたぁぁぁ!」
これも元気な坂本が、両手に抱えた荷物を四方八方に投げまくりながらずんずんと土方の元へやってきた。
「なんだい色黒」
「山南さん追い出してくれたっちゅーじゃないか!おかげでここに来る楽しみが減って向かう足取りの重いこと重いこと、詫び代わりにちったぁ儂にお愛想のひとつも言ったらどうじゃ!まあ伊東さんとこも取引先じゃけ、毎日会ってるが」
「じゃあいいじゃねえか」
坂本はどんと机に両手をつくと、土方の顔を覗き込んだ。
「8時に新宿で」
「…は?ナンパか?」
「ふふ〜ん。山南さんから伝言じゃ。メールすりゃいいのに儂をわざわざ伝書鳩扱いじゃくそむかつく。恋の始めは人に言いふらしたくてたまらんもんな?ん?色男、幸せか?」
「まぁ今のところは」
「死んでしまえ」
…いや、本当に今のところ。
今のところでしかないことを、俺も山南も、もう知っている。恋の始めなんて段階じゃないからだ。山南はどうだか知らないが俺はずっとしてた。
そういや新見さんはどうなったんだ、ちゃんと頑張ったのか。会ったら山南に聞かないと。
その前に、なんで毎度定時上がりが主義の奴が待ち合わせを8時に設定したのかを聞かないと。
なんで坂本に伝言を頼んだのかも聞かないと。
君の仕事に気を遣ったんだ、ただ惚気たかったんだと言わせないと。
毎日毎日戦場なんだ、今のうちの今までのぶんも、その先のぶんも言わせないと。
好きなだけだ。
ただ、好きなだけだと。
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